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御朱印帳散歩18 人形町(水天宮) [朱印帳]

人形町の水天宮に行きました。



東京メトロ半蔵門線の5番出口の階段を上がり、地上に出たら左手に進みます。

最初の交差点(すぐ近く)を左折すると、もう水天宮の社殿が塀の上に見えます。歩道の右側は街路樹、左側は屋根のある歩道。雨の日も、この日のように強い日差しの日も参拝者に優しい参道です。

参道から見上げた水天宮社殿↓



参道を進むと左側に階段がありますが、本来の入口(正門)はその先を左折したところにあります。2つ階段は途中で合流しているので、どちらから入っても同じです。

↓ 正門



正門の階段途中には左右に随身が控えています。これを随身門(ずいじんもん)と呼ぶそうです。「随身」というのは平安時代、貴族が外出する際に付き従った従者(今でいうSP)のこと。この門は神田明神にもありますけど、こちらは随神門と書くみたいです。↓



日本橋水天宮は久留米水天宮の分社。
最初は久留米藩藩主有馬氏が江戸の上屋敷内に祀っていたものでした。それをある時から毎月5のつく日には誰でも参拝できるようにしました。そのことから久留米藩主は「情け有馬の水天宮」と江戸庶民にもてはやされ、一方参拝者からの賽銭は藩にとって苦しい財政を建て直すための財源になったそうです。

祭神は、天御中主神 (アメノミナカヌシノカミ) ・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)です。

もともとは、高倉平中宮に仕えた伊勢という女官が壇ノ浦で生き残り、安徳帝と平家一門の霊を慰めるための祠を建てたのが始まりだそうです。水天宮は元の名を「尼御前神社」といいました。

平将門を祀る神田明神社といい、この水天宮といい、江戸っ子はほんとうに判官贔屓ですね。湯島天神もそうだ。

寳生辨財天(ほうしょうべんざいてん)



弁天様です。これも久留米藩上屋敷にあったものだそうです。

本殿



子宝犬



本殿にお参りしてから、御朱印をもらいに3階建ての社務所に向かいます。行列ができていたので警備員さんに尋ねたところ「御朱印の人はこちらから入って3階に行ってください」と、列の出来ている入口ではなく、社務所の出口の方を示されます。列に並ばなくていいことに少しほっとして3階(本殿は2階)に上がると、「今の時間は2階神札所でお願いします」と書かれていたので、2階に下りて神札所前に並ぶと「こちらは列に並んでください」と結局長い列の後ろに並ぶことになりました。

この程度の間違いはよくあるので驚きませんが、もう少し分かりやすい表示をお願いしたいものです。折しも大安吉日ということもあり、赤ちゃん連れのお礼参り、お宮参りの参拝客が多くて、御朱印のために並ぶのはちょっと後ろめたい。
後で思うと並ばずに帰るのが最善だったかな。

御朱印(上が水天宮、下は弁財天)





せっかく人形町に来たので、大観音寺(おおかんのんじ)にもお参りしました。水天宮から歩いて行くと、人形町の交差点の2本手前の左手路地にあります。



↓ 御本尊は鉄製の観音様です。

[

↓ 願いが叶う地蔵尊。



この他にも馬頭観音、韋駄天などがお祀りしてあります。

大観音寺の御朱印 
  (上が聖観世音、下が本願地蔵尊)





人形町にやって来たのは、東京の端で独り暮らす母を訪ねるついでだったのですが、今書いている小説の取材も兼ねていました。

短編小説の結末部を元吉原を舞台にしようと発想したものの、なかなか資料だけではイメージが湧きません。あまりに暑いので、妻は喫茶店で待たせて、私ひとりで元吉原があったであろう辺りを歩き回ってみました。

島原を歩いた時も感じましたが、意外に狭いことに驚きます。こんな場所に閉じ込められた遊女たちの閉塞感はいかばかりだったでしょう。かと言って、外に出れば日々の食事にも事欠く境遇の女性たちです。中も地獄、外も地獄。宝井其角の「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」を思い出します。この句はどこで切るかによって、「闇の夜も、吉原だけは月夜のように明るい不夜城である」という意味にも「月夜なのに吉原だけは闇夜のようだ」という意味にも
とれるトリッキーな句です。

人形町をブラついているうちに、いくつかの稲荷社を見つけました。

正一位橘稲荷神社



江戸時代、この周辺を「玄冶店(げんやだな)」という俗称で呼んでいたそうです。将軍家御典医の岡本玄冶という人が住んでいたからです。ある時、玄冶は江戸城内にあった稲荷社を賜り、この辺りにお祀りしたとか。何かの褒美なんでしょうが、稲荷社を下賜するなんてこともあったんですね。びっくりです。

富澤稲荷神社





富澤稲荷の中にある初姫稲荷神社



富澤町にある稲荷社です。戦後3つの町の稲荷社を合祀してできた神社だそうです。初姫稲荷社だけが合祀されずに狭い境内に独立しているのか不思議。どういう由来の神社か謎です。

笠森稲荷神社




↓ 笠森稲荷のなかにいるキツネたち。



江戸の町は「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と落語の枕に言われるほど、稲荷社多かったそうです。『江戸名所図会』(1834年)には183もの稲荷社が記録されているといいます。

新吉原には廓の四隅に稲荷社があり、遊女たちの信仰の対象になっていました。有名な九郎助稲荷もその一つで、元吉原から移転されたものです。 それらの稲荷さんは今も吉原神社に合祀されて残っています。

稲荷社は商売繁盛の神様ですが、火除けや病気治癒にも効験があると信じられていました。吉原の遊女たちが怖れていた病気は梅毒です。通称を「瘡」といいました。「瘡」と「笠」が同音であることから、特に笠森稲荷を頼る遊女が多かったそうです。元吉原の跡近くに笠森稲荷があるのもそのためでしょう。そう思って見ると、上のキツネたちの姿も遊女たちの悲哀を映しているように見えないでしょうか。

笠森稲荷神社の御朱印です。





読んでいただきありがとうございました。あなたも御朱印帳を持って散歩に行きましょう。
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