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小説『イマナリ』 [短編]

『イマナリ』 高平 九

はしがき
 この作品もあるコンテストに応募しました。『伊勢物語』63段「世心つける女」を題材にしています。

あらすじ
 清掃員の琴子はある建設会社のビルでトイレを担当していた。春から三男の光太がその建設会社の新入社員になった。ある日、琴子は今業平と噂される光太の上司原有一郎を知る。社長の御曹司でもある有一郎は、なぜか琴子を「お母さん」と呼んで慕ってくれるのだが……。

本文
 「琴ちゃんごめんね。手伝わせちゃって」
 琴子は5階の男子トイレで、隣の個室にいる常子の声を便器の中に顔を突っ込みながら聞いていた。さっきから便器のヘリの裏側の汚れを特殊なスポンジでこすっていた。水に浸かるほど頭を便器に入れないとへりの裏側をすべてを見ることはできない。でも、そうすると中が暗くなってよく見えなくなる。だから、どうしても手の感覚に頼るしかないのだが、ピンクの分厚いゴム手袋越しだとどうにももどかしく、汚れの状態がわからない。
「何言ってんの。お互い様でしょ」
 大声で答えた琴子は手袋を外し、素手で便器の裏側を磨いてみた。ヨシッこの方が汚れがとれる。琴子はひとり微笑んだ。手なんか後で洗えばいい。身体についた汚れなんか洗えばとれる。どんな汚れでも。
「ごめんね。本当に」
 気弱な常子に琴子は少し苛立った。こうやって仕事を手伝うことなんてなんでもない。でも、あの意地悪な庶務課長に汚れを指摘されたときに「誰も見ませんよ」くらい言ってやればよかったのだ。むろん琴子が課長なら「誰も見ないところをやるのがプロの掃除でしょ」と言い返すだろうが。

「琴ちゃん、ありがとう。これ飲んで」掃除の後は屋上でひと休みするのが習慣だった。ビルの屋上は高いフェンスで囲まれ、社員たちの憩いの場になっている。さすがに昼休みは遠慮したけれど、社員が通常の勤務にせいを出しているときには琴子たちも使わせてもらっていた。屋上は建築会社のビルらしくよく整備されていた。木々の植え込みや花壇などの間に遊歩道があって、たくさんの木のベンチが置かれている。琴子たちはフェンスに近く、いちばん目立たないベンチで休憩をした。フェンスの向こうには鱗雲の下に東京の舞台裏が広がっている。さらに向こうにはささやかな富士山も見える。琴子が身体をほぐしながら深呼吸をしていると、常子が缶コーヒーを持って来た。
「はい」と差し出された缶に、
「気を遣わなくていいのに、ありがとう」と言って琴子が手を伸ばす。
「熱い」琴子は缶の熱さに思わず手を引いた。缶が鈍い音を立てて転がる。
「相変わらずネコ手なんだから」常子が缶を拾ってくれながら笑った。

 琴子の手は冷たい。交際していたとき夫にもよく言われた。
 2年前、病室で琴子はすでに意識のない夫の手を握った。夫は長男の誠一が勤務する病院に大動脈解離で緊急入院していた。術後の経過も良好で、ICUから一般病棟に移され、安心して帰宅したばかりだった。看病で疲れて転寝をしていた琴子は誠一からの電話で起こされた。病室に駆けつけたときには、夫はもう意識がなかった。手を握ると夫がふいに目を開いて笑った、と琴子は思った。「お前の手は冷たいなあ」と笑ったのだと思った。そのまま夫の目の光はゆっくりと消えていった。なぜか琴子は「あのむこうで映画みたいにエンドロールが流れているのね」と思っていた。不思議に悲しい気持ちにはならなかった。それでも涙は目から漏れていた。「蛇口が壊れたんだ」と琴子は思った。
 夫の遺したものは多くなかった。財産はすべて息子たちの教育費に消えていた。そのおかけで長男の誠一は精神科の医師に、次男の純平は都庁の役人になることができた。3男の光太はまだ私立大学の2年生だった。多少の保険金は出たが、光太の学費のこともあるので琴子は清掃会社で働くことにした。もともと掃除は嫌いではない。スーパーやコンビニのレジで客や同僚に気兼ねして働くより、清掃員の方がのびのびと働けると琴子は思った。
 そしてこの春、大学を卒業した光太が偶然にも琴子が派遣されているビルを所有する平成建設に入社して、同じ職場で働くことになった。光太は優しい子だ。母親が同じビルでトイレ掃除をしているなんて恥ずかしいだろうに、どこで会っても必ずにこやかに声をかけてくる。同僚や上司に紹介するのも嫌ではないらしい。
「高井君には期待しています。本当ですよ、お母さん」
 だが、名刺を取り出したのは、さすがに原有一郎だけだった。原は光太が所属する営業2課の課長で直属の上司だった。
「実は平成建設の社長の御曹司」と光太が夕飯のときに教えてくれた。
「それなのに、少しも威張ったところがないだろ。誰にも親切で仕事もよくできて、それになんとも言えない品の良さがあるんだよなあ。会社中の女子から愛されてるし、男性社員にも信頼されてる」
「そんな完璧な人がいるのかねえ」と琴子が煎茶を注ぎながら言うと、
「まあ、欠点があるとすれば、あれかなあ」茶碗に手を伸ばした光太が「あちっ」と顔をしかめた。琴子に似てネコ手なのだ。
「なによ」
「人から聞いた話なんだけど、原さんて好きになってくれる女性には誰にでも親切にできるんだって」
「そんなの当たり前でしょ」
「いや、普通は好きでもない女性と付き合ったりしないでしょ。でも、原さんは全く興味のない女性でも、自分を好きになってくれれば愛してやるんだってさ。だから……」
「だから?」
「陰でイマナリって呼ばれてるらしい」
「イマナリ?」
「『伊勢物語』の主人公にさ。業平っているじゃない」
「そうなの」琴子は古典が苦手だった。
「その業平みたいにプレイボーイな奴を今業平っていうんだってさ」
「光源氏みたいなもの?」
「よくわかんないけど、そうなんじゃないの」

 原有一郎は光太がいないところでも琴子に「お母さん」と声をかけてくれるようになった。これには琴子の同僚たちも、そして原の同僚や部下たち、とりわけ彼のファンの女子社員たちは目を丸くして驚いていた。もちろん女子の目には嫉妬と軽蔑が混じっていた。
「実は僕マザコンでして」
 ある日、琴子が男子トイレの清掃をしていると、原有一郎が入ってきて、いつものように「お母さん」と気さくに話しかけてきた。
「早くに母を亡くしましてね。母は祖母や小姑にいじめられて、よく実家に帰っていました。祖母が私を離さなかったので、幼い私はいつも父の家に置き去りです。父も私も母を愛してましたから、とてもつらかったです」
 有一郎は問わず語りにそんな話をした。たまたま常子が孫の出産で休んでいて、琴子は1人だった。有一郎は手を洗いながら鏡越しに話していた。
「だから、高井君のお母さんと母を重ねてしまうんでしょうね」
 鏡の中の有一郎の顔がさびしそうに笑った。琴子はその時、有一郎を背中から抱きしめてやりたい衝動にかられた。たぶん彼は「お母さんは手が冷たいんですね」と言うだろう。でも、そうはしなかった。手には分厚いピンクのゴム手袋があり、その中にはまだ濡れたブラシが握られていたからだ。

「昨夜ね、夢を見たの」缶コーヒーを飲みながら、常子が琴子にそう話しかけた。
「どんな夢?」琴子は気のない相槌を打った。
「それがさあ、男の人の夢だったのよ」と常子が目を瞬かせた。厚化粧の白粉の壁が崩壊をはじめている。琴子は思わず自分の目尻を抑えながら、
「その話エッチな方に進む?なら私パスね」と言った。こんな綺麗な秋晴れを老女の脂ぎった夢の話で汚されたくはない。
「やあねえ。違うよ」と常子が琴子の浅黄色の制服の肩を叩く。常子は琴子と違ってとても手が熱い。余韻が肩のあたりにじんわり残る。
「孫がね、高校の古典の授業で勉強してきたんだけど、昔の人は異性の夢を見ると、相手が自分のことを想ってるって解釈するんだって」
「へえ、そうなんだ」
 誠一がこの話を聞いたら「ばからしい」と一蹴するだろう。「フロイトもユングもいない時代にはなんでもありなんだよなあ」と。
「あの人があたしのことを想っていてくれたらなあ」と言う常子の横顔は遠くを見ていた。その視線の先には今日も小さな富士があったが、彼女の目は他のものを見ているにちがいない。
「ばかね」ぬるくなったコーヒーを確かめるように飲むと琴子は思わず言っていた。
「ばかでもいいもん。ああ、一度でいいからあの人に抱かれたい」
 琴子はうんざりした。

 琴子もその夜夢を見た。夢の主人公は原有一郎だった。原は「お母さんの手は冷たいんですね」と言った。夢の中の琴子の手は有一郎の身体の熱い部分を握っていた。すぐにそれは琴子の両手に余るほどの長さになり、伸びた先端を琴子の口に突き入れ、からだの芯を貫いた。琴子は声を上げて目を覚ました。現実の布団の上でからだの芯はまだ疼いていた。

 翌朝、琴子が男子トイレの清掃をしていると、原有一郎が入って来た。こういう時に限って常子は孫がはしかに罹ったとかで休みをとっている。
「お母さん、おはようございます」と言って、有一郎はいつものように用をたした。琴子は身体が震えるのを感じていた。昨夜の芯の疼きが戻ってくる。
「おはようございます」となんとか言葉にした琴子は、個室に逃げ込んで便器を磨くふりをした。
「光太君、博多の現場に出張中でしたね。お一人で寂しくないですか」
 まるで「私が代わりに慰めに行ってさしあげましょう」とでも言うように琴子に聞こえてきた。
「いえ……はい」
 琴子は素手で便器のヘリの裏側を強く摩っていた。人差し指と中指の指先に濃い痛みを感じる。今、自分は自身を罰しているのだと琴子は気づいた。
「すいません。大丈夫です」琴子の声はかすかだった。
「えっなんて言いました」と有一郎が大きめの声で言った。
「大丈夫です」と言う琴子の声には少し苛立ちが混じってしまう。
「お母さん、ごめんなさい。何か気に障ることを言いましたか」
 そう言いながら、有一郎が琴子に近づいてくる気配がする。
「手……」琴子は立ち上がって言った。
「はい?」有一郎は個室の前に立っている。逃げ場はどこにもない。
「手洗ったほうが」琴子は振り返って、手で自分のマスクを下ろして言った。あたし何言ってるんだろうと琴子は思う。
「血が」有一郎の顔が驚いていた。そして、彼の手が琴子の手を握った。彼の手は温かかった。
「怪我してるじゃないですか。ちょっとこっち来て」有一郎はそう言うと琴子の手を握ったまま手洗い所に引っ張って行き、傷口を洗ってハンカチで包んでくれた。私の手じゃなくてあなたの手を洗ってと琴子は思う。
「医務室に行きましょう」
「それは、できません」
 この人何を言ってるんだろう。清掃員が会社の医務室を使うなんてとんでもないと琴子は思った。
「困ったなあ。じゃあ、ここで待っててくださいね。いいですか」
 琴子は待たなかった。掃除用具の片付けもせずに、ハンカチを手洗い場に残して逃げ帰ってしまった。帰る途中でも有一郎が手を洗ったか気になって仕方がなかった。

 その夜、大阪にいる光太から電話があった。
「母さん、どうしたんだよ。line見てないのか。電話もしたんだよ」
「ごめん。ちょっと具合いが悪くてね」
 琴子は布団の中にいた。スマホは枕元にずっとあったが着信に気づかなかったらしい。
「大丈夫なのかい。課長が心配して俺のところに電話をしてくれたんだ。出血してたっていうじゃないか」
「大したことないのよ。指先をちょっと切っただけ……あのね。光太。母さんもう仕事辞めようと思うんだけど、どうかな」
「……そりゃ、俺ももう学生じゃないし、食費ぐらいなら家に入れたっていいけど……その件は兄貴たちとも相談するとして、とにかく課長に連絡してくれよ。メルアド送るからさ」
 琴子は光太が送ってくれたメールアドレスに、自分が無事であることと黙って立ち去った非礼をわびる短い文章を綴って送った、すぐに有一郎から返信があった。「心配なので夜中でもいいから電話をください」という内容だった。プライベートで使っているスマホの番号も添えられていた。琴子はどうすればいいか分からなかった。このまま放っておきたかった。仕事も辞めて有一郎の前から消えたかった。

 「あのね。母さんさ」と琴子は切り出した。電話の向こうの長男の誠一は機嫌が悪かった。琴子が誠一に電話をするのは久しぶりだ。誠一は意外にストレスに弱い。昔から人間関係のトラブルでも勉強の行き詰まりでもすぐに顔に顕れた。だからこそ精神科医を志したのだが。自分からの電話もまた彼のストレスになるだろうと琴子は感じてしまう。
 琴子は「仕事辞めようと思って」と言うつもりだったのに「夢を見たんだ」という言葉が口から飛び出し「知り合いの男の人が出てくる夢でね」と言ってしまっていた。
「辞めてくれよ。こっちは忙しいんだよ」と言って誠一は電話を切った。
 次に次男の純平の携帯にかけた。
「母さんね、男の人の夢を見たんだ。どう思う」と琴子が言うと、少しの沈黙の後「母さん、一度兄貴のところで診てもらおうか。女房の実家のお父さんも最近認知症になっちゃってさ……」
 純平は妻の実家の言いなりだった。純平だけではない。夫が遺した財産を3人の息子たちのために使い果たしたのに、誠一も純平も家を出て、それぞれ妻の実家のそばに家を建てた。どちらも病院長や役所の上司の娘だから仕方がないが、そのために自分はトイレ掃除の仕事をすることになって、原有一郎に出逢ってしまったと琴子は思った。
「あたしね、夢の中の男の人を好きになってしまったみたいなのよ」と琴子は言っていた。
「あの、あのさ。困ったな。そんな夢見るなよな。恥ずかしいよ」
 電話の奥から1歳になったばかりの孫の笑い声がする。嫁は好きではないが、孫は可愛い。純平はその子に琴子の字をとって琴音(ことね)という名前をつけた。優しいのか冷たいのか子供の頃から母親の琴子にも純平の本性がよくわからない。
「あんたはいつまでも正体が見えない子だねえ」と琴子ははじめてそう言った。
「うるせえよ。お前に俺の正体が分かってたまるか」と純平が怒鳴った。一瞬琴音の泣き声が聞こえて、電話は無音になった。
 琴子は1階の和室にいた。子供たちには2階にそれぞれ勉強部屋をもたせてやった。今も光太はその部屋を使っている。誠一と純平の部屋も昔のままだ。
 この和室で琴子は夫と長いこと過ごした。夫が好きだった時代劇の文庫本、趣味の釣りの雑誌、国語辞典、そして老眼鏡の入った黒いケース。5年経った今でも夫の気配はこの部屋に色濃く遺っていた。そして、この家にいる琴子はまだ夫のものだった。でも、琴子は寂しかった。思わず夫の愛用の枕を胸に抱きしめた。そして泣いた。声を上げて泣いた。「寂しいよう」と口に出した。「お前にはまだ光太がいるじゃないか」と夫の声が谺のように返ってきた。「光太だって直に結婚して家を出てしまう」と琴子は見えない夫に向かって訴えた。「そうしたらまた琴音みたいな可愛い孫が産まれるさ」顔を上げると長押にかけた夫の遺影が笑っている。「琴音にだってなかなか会えないんだよ。それに純平ったらあたしを『お前』なんて……」「それは母さんがひどいことを言ったからだろ。すぐに電話して謝りなさい」「わかったよ」
 亡くなった後の夫は生きている時よりずっと雄弁で優しい。琴子はスマホを手に取り、履歴から純平の名前を探した。通話ボタンに指を当てるとき、絆創膏をした人差し指と中指が目に入った。と、ちょうどそのとき玄関のチャイムが鳴った。
 インターホンの受話器を耳に当てると原有一郎の声がした。
「夜分すいません。指の方どうですか?気になったので来てしまいました」
 琴子は何も答えずに受話器を戻した。そして和室につながっている台所に行った。流し台の下には釣ってきた魚を捌くための夫の出刃包丁がある。琴子はその一本を抜くと、ゆっくり玄関に向かった。

                                 おしまい

読んでいただきありがとうございました。よろしければコメントをお願いします。

↓ 『伊勢物語』には様々な恋の形が描かれています。そして主人公業平はどんな女性の気持ちにも答える理想の男性として描かれているのです。


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