So-net無料ブログ作成

小説『塀』 [短編]

『塀』 高平 九

隣の家との境に塀ができたのよ。ヘーッ。無視された。妻はワイシャツにアイロンをかけながら、すごく高い塀なのよと言った。カッコイイ。また無視された。

土曜日。五月の空がとても高い午後。私はパジャマ姿のまま、リビングのソファーで新聞を読んでいた。

それでね、うちのベランダに陽が当たらなくなっちゃって。ほら。
妻がアイロン掛けの途中のワイシャツを私の鼻先に押し付けた。なるほど少し臭うかもしれない。

とにかく非常識に高い塀なのよ。あなたから隣のご主人に話してくださらない?ゴルフ仲間でしょ。
そういえば、私が25年働いた職場をリストラされて今の職場になってからは、電車の時間も変わったこともあって隣人と会うことがなくなった。それに前の職場から比べれば今のところはあまりに零細だった。小さな会社である分、働きがいもあったし人間関係も悪くない。でも、この町で暮らすには不釣り合いだった。そんなこんなで、大企業の部長に出世したばかりの隣人とはあまり顔を合わせたくなかった。
 
アイロン掛けを続けている妻の背中を見た。笑いのツボにズレはあるものの、気のいい女だ。結婚して20年私を支えてくれた。1人娘はこの春からフランスの大学に留学している。残念だが、この高級住宅街から出て小さなマンションにでも移るしかない。それともいっそ実家にでも戻るか。

次の土曜日の夕方。リビングのソファーで新聞を読んでいると、妻がまた「塀」の話を蒸し返した。

それがね、まるで塀がうちを囲んでるみたいなのよ。キッチンで味噌汁の具でも切っているのだろう。包丁の音がせわしなく鳴っている。もともと低い塀があった両隣と裏の家は分かるけど、玄関の前の塀はいくらなんでもねえ。

先週のうちに隣との庭の境だけでなく反対側、そして裏の家との境にも高い塀が出来た。そして今朝はとうとう玄関前にも塀が出来たというのだ。そうだなあ。そりゃカーベー(勘弁)だ。また無視かよ。

仕方なく夕飯のあとで玄関前の塀を見に行った。確かに我が家の門の前に白い塀が立ちはだかっている。高さは二階建ての我が家をはるかに越えて、見上げると直線で切り取られた五月の空がこちらを覗きこんでいる。

昨夜帰宅したときにはこんなものはなかった。いつの間にこんなものを作ったのだろう。
実は四方を塀に囲まれたのは私にとって都合がよかった。妻には言いそびれていたが、昨日新しい職場から解雇を言い渡されたばかりだったからだ。これで仕事に行かない口実ができた。それより何より、明日の朝刊は届くのだろうか。

塀を壊すしかないか。口先だけで言ってみる。だめよ。そんなことしたら、お隣さんが怒るわよ。知るかよ。もともとこんな非常識な塀を立てたのがわるいんだ。そうだ……玄関の前の塀なら壊しても文句を言う奴はいないんじゃないか。
だめだめ、家の前に塀を立てたとしたらお国かお役所がやったことでしょう。お隣より厄介だって。
あれ? ハハハ。おい見てみろよ。馬鹿だなあ。塀を高くしすぎて下の方が開いちゃってるぜ。
塀と地面の間が30㎝くらい空いている。アラ、ホント。
明日ここから隣に行って事情を聞いてみるよ。今日行ってくださらないの。
うん? ああ、そうだな。隙間を見下ろした。ここを這って出るのはちょっと面倒だ。明日の朝はやくに行ってくるよ。……そう。
ほっとした。とりあえず朝刊は届きそうだ。

翌朝、家の中に妻がいなかった。風呂の浴槽や冷蔵庫の中まで見た。おーいという自分の声がむなしく響く。最後に玄関に行った。夜はとっくに明けたはずなのに外は真っ暗だった。玄関に戻って門柱の明かりを点けてみる。白い壁が恐ろしい形相で立ちつくしていた。とっくに昨日の隙間はなくなって塀が深く深く地面に食い込んでいた。
塀の内側に今朝の朝刊がつまらなそうに落ちていた。

新しい夫は犬を飼っていた。女は犬の散歩を口実に毎日その箱の様子を見にやって来た。
犬はきまってその箱に向かって吠えた。女はフランスの娘から送られてきた絵はがきを入れてやろうとしたが、その箱にはどこにも隙間がないのであきらめた。
高級住宅街の景観を壊していた大きな四角い箱は次第に小さくなっていった。それにつれて犬も関心をしめさなくなった。
やがて物置ぐらいに縮んだと思ったら、翌日にはとうとう片手で持てそうな小さな白い箱になっていた。女は犬を引いて、ついでにその箱を持って新しい家に帰ることにした。

                  おしまい

読んでいただきありがとうございました。御感想をコメントしていただけると嬉しいです。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。