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ショートショート作品 『ドラゴンパレス』 [短編]

ショートショート作品 『ドラゴンパレス』

**あらすじ***

 ホームレスの島は四十年ぶりのクラス会で良子とその夫亀岡に再会した。亀岡はIT業界で大成功をおさめた大富豪だった。だが、なぜか島には亀岡という男の記憶がなかった。亀岡に「ドラゴンパレス」という高級クラブに連れて行かれた島はホステスの乙女に一目惚れしてしまう。その島に亀岡がある提案をした。


**本文***

 中央のテーブルで車椅子に乗ったかつての担任の山口がクラスのマドンナ阿部良子と談笑しているのが見えた。このクラス会は山口の古稀を祝うものだった。山口は少し前に脳梗塞をやって半身にまひが残ったという。剣道部の顧問で教室に竹刀を持ってきては、何か気に入らないことがあると振り回していた。そんな野蛮きわまりない担任が今では白髪の好々爺になっていた。無理もない。中学を卒業して四十年が経っていた。
 島光太郎は気の抜けたビールを口に運びながら周囲を見渡した。さっきから同じテーブルにいる連中の名札を盗み見ているのだが、そんな名前の人間がクラスにいたことすら思い出せない。どうやら連中同士も同じらしく、互いのことを探り探り話しているのが面白い。まるでみんなが浦島太郎か浦島花子になったようだ。
 クラス会の席次は担任の周りが上席だ。そのテーブルには学級委員だった福尾や剣道部の部長だった牧原などの姿が見える。みんなクラスのリーダーで成績もよかった。なのになぜか島は会場の端のテーブルだった。さっきからそれをずっと訝しく思っていた。クラス会というのは過去の自分と再会する場所である。どんなに歳を経てもここに来れば、中学校の頃の席次に座ることができる。俺はあのテーブルにいるべき人間なのにと島は思った。マドンナの阿部良子もまた女子のリーダーだった。学年でもトップの成績だった島がその中に加えられないのはおかしい。
「島ちゃん。久しぶり」
 良子が近くにやって来て声をかけた。当時と同じように、笑うと片えくぼが出来る。修学旅行前後の短い間、良子は島のものだった。旅行から帰った代休の日に良子は初めて島の家にやって来て二人は結ばれた。どちらも初めてだった。島は良子のようないい女と別れた理由を思い出せなかった。それをどうしても聞きたくて思い切ってここに来たのだ。
「ちょっと来て、旦那に紹介するから」
 ところが、良子に機先を制され中央のテーブルに連れて行かれた。島がテーブルに近づくと福尾と牧原の顔が緊張するのが分かった。二人とも立派な身なりをしていたからそれなりの地位に就いているだろうが、そんなことで中学時代の席次は変わらない。島は少し愉快な気分になった。それにしても二人のどちらかが良子の夫なのか。
「やあ、福尾。牧原も元気だったか」
 二人は「やあ。島ちゃん」と言ったが、顔はこわばっている。当時の力関係を快く思っていないにちがいない。
「おお。島か。お前とはずいぶん会ってないな」
 隣の男と話していた山口が赤い顔で振り返った。
「先生もお元気そうで何よりです。ご病気なさったそうですが、その後どうですか」
「こんなざまになっちまったよ。もう長くないだろうな」
「先生。またそんなこと言って。あなた先生にお酒勧めちゃだめだって言ったでしょ」
 良子が「あなた」と呼びかけたのは山口と話していた黒髪の紳士だった。クラスの男達が一様に肥えて、頭も禿げるか白髪になっている中でこの男だけは髪が真っ黒ですっきりした身体に高価そうなダークスーツを身につけていた。さて、こんな奴がクラスにいただろうか。どこかで見た顔ではあるのだが思い出せない。
「ごめんな。でも少しくらいなら大丈夫だと福尾教授のお許しが出たんだ」
 福尾は大学の医学部に進学して今ではその大学の教授になっていた。中学時代の成績は学年で四番か五番あたりをうろうろしていたはずだ。毎回トップ争いをしていた島には及ばない。それが大学の医学部教授様とは世の中はどうかしている。
「薬も服用してるからビールを少しくらいならなんてことないさ」
 福尾は真っ赤な顔をして良子に弁解した。
「命短し飲ませよ乙女ってな」
 牧原が福尾の肩を抱きながら言った。牧原はしばらく教育委員会にいたが、この春から進学校として有名な高校の校長になったと誰かから聞いたばかりだ。この男の席次はせいぜい五十番程度。それが校長とは笑わせる。
「この人が私のダーリン」
 良子がテーブルを回って担任の向こうにいるさっきの紳士に腕を絡めた。
「島君。久しぶり」
 声を聞けばと思ったが駄目だった。男は色白で涼しげな整った顔立ちをしている。顔も身体も引き締まっているのがスーツの上からでも分かった。身体つきはバスケットボールかバレーボールの選手を思わせた。だが話し方や身のこなしはエレガントで、島を圧倒するような品のあるオーラを纏っていた。そんな男がクラスにいたら島は激しい嫉妬心を抱いただろう。だが、そんな記憶はない。
「ああ。久しぶり」
 しばらく話せば思い出すだろうと島は思った。ここにいるからにはクラスメイトには違いないのだから。そう思って男と良子の近くに移動しようとしたとき、
「では皆様。席にお付きください」
 司会者の鈴木の声がした。鈴木は地元でラジオパーソナリティをしているらしい。慣れた司会ぶりだった。席を立っていた人々がゆっくりと自席に戻って行く。島も仕方なく自分のテーブルまで戻った。
「それでは、山口先生にクラスのマドンナ良子から花束と記念品を贈っていただきましょう。皆様盛大な拍手をお願いいたします」
 拍手の中、さきほどの男が車椅子を押して担任を金屏風の前に移動させた。良子が山口に花束を渡すとさらに盛大な拍手が起こった。司会者の鈴木が担任にマイクを渡す。
「皆さんありがとう。良子ありがとう。みんなが中学校を卒業して四十年。それぞれの分野で成功している姿を見るのが、今の私の唯一の楽しみです。ことにこの良子君の夫亀岡利一君は今ではリチャード亀岡という名でIT業界だけでなく世界を舞台に活躍している。正直言って、中学時代の亀岡君が将来こんなに活躍するとは私は思わなかった」
 会場に笑いが起こった。亀岡も別に不愉快そうではない。
「こういう嬉しい誤算が起こるから人生は面白い。今後の皆さんのご活躍をこれからも祈っております。今夜は本当にありがとう」
 また盛大な拍手が起こった。その拍手は車椅子の後ろに立つ亀岡と妻の良子にも贈られたものだった。しかし島は会場の隅のテーブルで拍手も忘れるほど驚いていた。あの亀がマドンナの良子を手に入れた。しかもIT業界の寵児として夙に有名なリチャード亀岡だなんて信じられなかったからだ。

 島は暗い公園の林を抜けて自分の小屋に入った。小屋と言ってもビニールシートと段ボールを組み合わせた粗末なものだ。スーツとネクタイ、ワイシャツ、それに靴を脱いで、いつものジャージ姿になった。脱いだ物は丁寧に畳んで、スマホと財布などの小物とまとめてサドの小屋に運んだ。もちろんタッパーに入った宴会の残り物を添えてだ。
「サドちゃん。ありがとさん。助かった」
 サドは毛布にくるまってノートパソコンを操作していた。この公園に住む五人のホームレスの中でサドだけがスマホやパソコンを持っていた。どちらも別れた妻が持たせてくれたものだそうだ。サドはそれらを使って子ども達と連絡を取っていた。妻としては子ども達の父親がホームレスだなどと知られたくないのだろう。スーツを持っているのも月に一度子どもたちと会う時のためだ。
「ああ。それでどうだったんすか。クラス会は」
 サドはパソコンの液晶画面から目を離さずに尋ねた。年齢は四十歳くらいだろうか。五人の仲間の中では一番若い。月に一度子どもたちと会うので髪もいつも短くしている。服装さえきちんとしていれば誰もホームレスとは思わないだろう。
「嫌な奴がたくさんいた」
「そりゃそうですよ。世間はここほど甘くないすから」
「ところでサドちゃん頼みがあるんだ」
 二次会のカラオケで島は良子の隣に坐った。当然だがその向こうには亀岡利一がいる。二人がどうして結婚したのか聞きたかった。中学生の頃、良子と亀岡は同じクラスにいても全く別世界に住んでいるも同然だったからだ。卒業するまでの間に数えるほどしか言葉を交わしたことはないに違いない。それとも島の知らないところで二人の交流があったのか。良子はなぜ島と別れて亀岡と結婚したのか。それが知りたかった。だが、カラオケの喧噪の中ではそれは叶わなかった。帰り際にかろうじて良子とメールアドレスを交換することが出来ただけだ。
「その良子って人からメールが来たら伝えればいいんすね」
「そうしてくれるかい。恩に着る」
「良子って島さんの昔のこれっすか」
 サドは初めて液晶から目を離して島に小指を突き出した。先週、ゴミを漁っていたところをコンビニの店員に見つかって殴られ前歯が一本欠けていた。それも別れた嫁さんに頼んで治してもらうようだ。嫁さんは歯科医だった。
「違うよ。サドちゃんなら知ってるだろ。リチャード亀岡って」
「当たり前っすよ。これでも昔はIT業界にいましたからね」
「良子はその亀岡の奥方なんだ。ついでに言うと亀岡も同級生さ」
 島は少し得意になっている自分に気付いて恥ずかしい気持ちになった。サドはそんな島の思いに気付かず、本心から驚いていた。
「それ、ほんとっすか。信じられねえ。あのリチャード亀岡と。へえ」
 サドは島と亀岡との格差を驚き、そして面白がっていた。
「悪かったな。同級生がホームレスで」
 島はサドに自分もホームレスであることを思い知らすようにそう言った。それが分かったのだろう。サドは首を竦めて、
「人間の運命なんて紙一重なんすね。きっと」
 と言いながらスマホを手にした。液晶が光が少し寂しそうなサドの顔を照らした。
「早速来てますよ」
 サドはスマホを島に渡した。良子のメールには、
(今日は久しぶりに会えて嬉しかった。ところで、亀岡があなたともう一度会いたいそうよ。どうする?)とあった。
「リチャード亀岡って奴。そんなに偉いのか」
 サドにスマホを返しながら島が尋ねた。
「少なくとも金は持ってますね。今じゃ世界的な大富豪っすよ。ほとんどタイムラグなしにどんな言語間でも翻訳してメッセージを送れるSNSを開発したんですよ。世界中の人がそのSNSを通じて友達になれるんです。すごいっすよ。世界を一つにしたんすから。そういう意味じゃ偉い人ですね。ノーベル平和賞の候補にも挙がったっていうし。もちろん俺にとっちゃ島さんへのリスペクトの方が強いですけどね。何しろここに住めるのは島さんのお陰なんすから」
 島たちがこの公園に流れて来たのは河川敷を追われたからだ。そしてたまたま公園の池に落ちて溺れている子ども島が助けた。その話が広まると地域の人は島たちが公園に住むことを黙認してくれた。時には差し入れまでしてくれるようになった。島たちも進んで公園のゴミ拾いをしたり、落ち葉の片付けを手伝ったりして少しでも長くこの公園に住めるように努力をしている。そして、いつの頃からか島がリーダーになり、他の四人はそれぞれサド、アマミ、ミヤコ、シキネと名乗るようになった。むろん、どれも島の名だ。
「それで返信はどうします」
 島は少し考えて、
「なあ。サドちゃん。またスーツやスマホを借りてもいいか」と言った。

 数日後の夜、島と亀岡はドラゴンパレスという「奥銀座」の高級クラブにいた。
 島の転落は祖父が起こした玩具会社を継いだところから始まった。浅草橋にあった小さな玩具問屋をいくつかのオリジナル玩具のヒットによって、大手の仲間入りをされたのは祖父だった。島の父親はそれを継いだもののゲーム機やソフトを毛嫌いしたために時代から取り残された。だが、祖父の代にヒットした商品は長い間世界の子どもたちに愛されていたから、それだけでも何とか生き残ることが出来た。決定的だったのは島がゲーム機やソフト開発に手を出したことだ。すでにゲーム機全盛期が終わっていることを島は理解できなかった。反対する重役たちを若い自分を馬鹿にしているのだと勘違いして追い出した。その挙げ句ロングセラーの玩具のライセンスまで手放す羽目になった。役員会で引導を渡された島の生活は荒れて妻とは離婚。逆転を狙い私財をつぎ込んで投資した会社が倒産し、家屋敷までも手放してついには自己破産。そして今はホームレス。これが島の人生である。
 社長の時にはもっぱら銀座で遊んだ。社長仲間から「奥銀座」の噂を聞いたことがある。だが、三次元から四次元から見えないように、この社会にはいくつかの次元がある。セレブ中のセレブだけが利用する遊び場。それが「奥銀座」であり他の階層からは巧妙に隠されている。ドラゴンバレスは「奥銀座」の中でも超一流のクラブなのだそうだ。
 案内された部屋でソファーに坐っていると、すぐに五人の女性達が入って来た。彼女達はよく訓練された小隊のように連携して亀岡と島を楽しませた。酒やフルーツを勧めるタイミングも会話の進め方も実に見事で、銀座を極めたつもりでいた島もその徹底したもてなしに舌を巻いた。そして、三十分ほど経つと彼女達をコントロールしている中心の女性がいることに気付いた。彼女は初めての客である島の嗜好を微妙に感じとって他の女性達を入れ替えていた。初めはバラバラだった女性のタイプがその頃には島の好みに統一されていた。せっかく好みの女性に囲まれた島だったが、次第に彼女達の隊長にばかり目がいくようになった。彼女も微妙にそれを感じのであろう。さりげなく島の隣にやって来た。
「君、名前は」
「乙女と言います」
 笑顔になると口の両側にえくぼが出来た。どことなく良子に似ていると島は思った。他の四人の女性達と比べると容姿の華やかさでは見劣りがした。それでいて一度気になると目が離せない存在感がある。
「君は……」
 島がそう言いかけた時、
「悪いがこれから大事な話があるんだ」
 亀岡が言うと乙女の目配せで女性達は潮が引くように部屋から消えた。島は乙女の後ろ姿を目で追った。
「良子がね。島ちゃんのことを心配しているんだ。怒らないで聞いてくれたまえよ。君のそばに寄ったときに臭ったと言うんだよ」
 その言葉を聞いた時、島は身が縮むような恥を感じた。それは自己破産した時さえ感じたことのない怖ろしいほどの恥だった。クラス会に出ると決めた島はまずアマミに相談した。アマミは元銀行員で公園の仲間の金を管理していたからだ。誰の金ということでもない。五人が何らかの収入を得ると必ずアマミに渡していた。そして必要がある時にはアマミに頼むのだ。その金を出すか出さないかはすべてアマミの判断である。リーダーの島にも強制は出来ない。
「中学のクラス会?」
 アマミは赤いニット帽の上から頭を掻きながら言った。次は脇の下。そして太もも。アマミは身体を掻くのが癖だ。しかもそのルーティーンは決まっていた。
「なら、まず銭湯に行けよ。俺らはまず臭いで嗅ぎ分けられるんだ」
 と言って会費の六千円だけでなく銭湯代や交通費、それに二次会の費用までも加えて持たせてくれた。銭湯で身体中が赤くなるほど垢をこすったつもりだった。しかし、微妙な臭いを良子に嗅ぎ分けられていたわけだ。
「良子から困っているなら助けてあげてほしいと言われた」
 亀岡は癖なのだろう。大ぶりな腕時計の表面を指でこすった。文字盤が光っているのはダイアモンドだろうか。
「だけど、それじゃあ。君のプライドを傷つけることになる。だから、一つ提案がある」
 もうとっくにプライドは傷付いていた。初恋の相手に一生懸命取り繕った仮面を引き剥がされ、その夫に同情され……だが、自分にプライドなどまだあったのか。傷つけられて初めてそのことに気付いた。亀岡の指はまだ時計のガラスを拭っていた。
「提案?」
「うちの会社が国際的なSNSを運営していることは知ってるか?」
「知ってる。どんな言語もたちまち翻訳してコミュニケーションが取れるそうだな」
「その結果、私のところには世界中の情報が入って来るようになった。中には研究の経済的な支援を求めるものもある。その中にタイムマシンがあった」
「はあ。タイムマシン」
 からかわれているのだと島は思った。真面目に話しを聞いていた自分を呪った。こいつは妻の良子が気遣った男をもて遊んで楽しんでいる。いや、もしかすると良子も一緒になってからかっているのかもしれない。島は拳を握りしめた。亀岡は島に近寄ってその拳をそっと掌で包んだ。
「私も信じられなかったよ。人間が時間を遡れるわけがない。だがな。身体は無理でも意識だけなら可能だと分かった。人の意識というのは我々が思っているよりも自由なんだ」
「馬鹿にするな」
 島は亀岡の手を振り払った。
「信じられないのも無理はないな。だが本当のことだ。我々は意識だけを過去に飛ばすことができるようになったんだ」
 亀岡は島の目を見据えてそう言った。島はその目に見覚えがあった。茶色い瞳がかすかに震えている。
「島ちゃん。もう一度中学時代に戻ってみないか。どうせ長くはいられない。たった一日だ。一日だけ君の意識は中学時代に戻る」
「お前の研究の実験台になれってことか。その報酬でもう一度勝負させてくれるとでも言うのか」
「いや。報酬は金でなくてもいい。私は良子と結婚して運気を手に入れた。今の成功はすべて良子のお陰と言ってもいい。もちろん今さら君に良子を譲るつもりはない。だが、もし君に欲しい女がいるなら……」
 不思議だが、その時の島の脳裏にはくっきりと乙女の顔が浮かんでいた。ほんの一時間ほど前に会ってほとんど言葉も交わしたことがない女性。それが島を再生させる女性なのか。
「それで何をすればいい」
 
 島は中学生だった。亀岡の言うとおり意識だけが中学時代に戻っていた。最初はただの夢かと思った。今は高層マンションが建っているが、もともと島の家族は中学校のすぐ近くの大きな屋敷に住んでいた。その家の二階のベッドで目覚めた。一瞬、その後の没落こそ悪夢だったのではないか思った。
 しかし、夢ではなかった。おそらく中学生の本当の島の意識は麻酔でも嗅がされて、意識の地下室にでも押し込められているのだろう。未来から来た島がその身体を完全に乗っ取っていた。島はすぐにパジャマと下着を脱ぎ捨てて鏡の前に立った。当たり前のように漲った下腹部、ドクドクと身体中をほとばしるように巡る熱い血を肌の下に感じることができた。このたぎるような力があれば何でも出来る、何にでもなれる気がした。
 制服に着替えて、まだ若い母の作った朝食を食べ、新聞を読んでいる父親と茶を飲んでいる祖父に「行って来ます」と言って家を出た。おそらく過去の島にとっては当たり前の日常が愛おしくてならなかった。
 中学校では記憶の中の阿部良子が新鮮な片えくぼで迎えてくれた。島が「おはよう」と挨拶すると、良子は顔を赤くして女子の群れに逃げ込んだ。どうしたんだろうと振り返ると黒板にチョークで書かれた日付が目に入った。その日は修学旅行の代休明けだった。つまり昨日、島と良子は初めて結ばれたのだ。
 窓側の一番後ろが島の席だった。その前が福尾、そして島の隣が牧原だ。良子の席は教卓の真ん前だった。良子は時折島を振り返って笑いかけ恥ずかしそうに急いで背を向ける。可愛いと島は思った。
「島ちゃん。亀、今日やるんだよね」
 学級委員で将来は教育者になる福尾が暗い声で囁いて来た。隣の牧原も椅子を引きずって島に近寄って来た。
「赦せないよな。良子にちょっかい出すなんて。転校生のくせに」
 教育者になる牧原の言葉とも思えなかった。その時、島は思い出した。そうだ。亀岡は修学旅行の直前に関西から転校して来たよそ者だった。
 担任の山口が教室に入って来て福尾が号令をかけた。山口はいきなり竹刀で教卓を叩き、修学旅行でのちょっとした遅刻や消灯破りについて説教を始めた。教室を恐怖が支配していた。島はあまりに懐かしくて笑みを浮かべてしまった。山口と目が合い、慌てて真顔に戻ったが遅かった。山口は狭い机間を乱暴に通って島の前に立った。
「コラッ! 島! 何を笑っとるか!」
 山口の竹刀が島の短い頭髪を掠めて背後の壁に当たって大きな音を立てた。島は立ち上がり直立不動で山口の目を見ながら、
「すみませんでした。先生のことを笑ったのではありません。許してください」
と大きな声で言った。その島の左頬を山口の分厚い平手が襲った。島は反動で飛ばされ牧原にのしかかる形で止まった。山口は黙って教壇に戻った。
 この日の一時間目は修学旅行の反省会だった。だが、山口は自分達で反省会をやって終わったら、会議録を持って来るようにと福尾に指示をして教室を出て行ってしまった。
 福尾は前に出て修学旅行の反省を発言するように促した。すかさず牧原が手を挙げ亀岡が班行動の時に別行動をして友人と会ったと告発した。それまで島は亀岡がどこに座っているか分からなかった。彼は教室の廊下側の先頭に小さく震えて座っていた。色白で影の薄い小柄な少年。将来の精悍な大富豪の片鱗はどこにもない。これでは記憶にないのも無理はないと思った。その時、良子が「はい」と手を挙げた。
「亀岡君はここに転校する前は京都にいたそうです。確かに別行動はよくないことですが、せっかく京都に帰ったのだから、昔の友人と会いたいと思ったのも無理はないと思います」
 女子の何人かが頷いた。
「でもさ。修学旅行は集団行動を学びに行くんだぜ。それを破るってのは重罪だよ」
 鈴木がよく通る声でそう発言すると多くの者が「そうだ。そうだ」と言った。ラジオのパーソナリティになるだけあって鈴木の声には説得力がある。
「今はこちらの人間なんだからさ。昔の友達より今の友達を大切にするべきだと思う。亀の行動は僕らを馬鹿にしてる」
 牧原が追い打ちをかけた。さらに大きく同意の声が上がった。
「山口に報告すると亀がどんなひどい目に遭うか分からない。ここは僕たちの中だけで解決しようぜ」
 福尾が提案した制裁は怖ろしいものだった。牧原たちが教室の後ろで亀岡を押さえ付け、クラス全員が1人ずつそこに行ってコンパスの針で亀岡の身体のどこかを刺すのだ。亀岡が叫ばないようにハンカチで猿轡をかませている。
「じゃあ。出席番号一番の人から」
 呼び出し役は書記の鈴木だった。出席番号の一番は阿部良子。だが、良子は机に座ったまま動かなかった。制服の背中がかすかに震えているように見える。
「良子早くしろよ」
 牧原が苛立って言った。さっき牧原が亀岡は良子にちょっかいを出したと言ったのを思い出した。あれは島の気持ちを考えて言ったのだと思っていたが、実はみんなのマドンナに近づこうとしたことに腹を立てたのかもしれない。そして、その中には交際をはじめた島への怒りも、それを許した良子への怒りも含まれているのではないか。
「こんなのおかしいと思わない?」と良子が振り向いて全員に言った。声が震えていた。目には涙があふれている。良子と目が合った。島はこのとき確信した。亀岡がこの時代に島を戻したのは実験のためではないと。島はこの後起こる事件の責任を問われているのだ。
「やめよう。くだらない」
 島は立ち上がって言った。教室中の目が島を見た。
「福尾、牧原。鈴木もやめるんだ」
 島は自分がどれくらい彼らに影響力を持っているか分からなかった。だが、個人の名を出して制した方が効果的だと思った。
「島ちゃん。これはクラスみんなで決めたことなんだ。あんたに言われてやめるようなことじゃない」
 福尾の声は低く冷静だった。
「あんた。良子としたんだってな」
 牧原が言った。良子の小さな悲鳴が聞こえた。牧原はいつになく暗い目をしている。男子たちが島を一斉に見た。嫉妬。怒り。
「それは亀のこととは関係ない」
「あんたが言い出したことだろう。亀が良子にちょっかい出してるから懲らしめてやれってな。それを今更なんだよ」
 福尾の声に怒気が含まれていた。そしてその怒気は福尾だけのものではない。牧原、鈴木だけではない。亀岡以外の男子が「良子とした」という牧原の言葉によって日頃抑え込んでいる獣を解き放った。そのすさまじい力で島を圧し始めていた。

 意識が未来に戻ったとき、島はシャツをめくってみた。コンパスで四十回刺された痛みがまだくっきりと残っていた。だが、傷跡はもうなかった。タイムマシンを使う前、島は妻の良子からホームレスになった亀岡を救ってくれと言われていたはずだ。だから、まずは「奥銀座」のドラゴンパレスに連れて行き乙女と会わせることにした。亀岡は当然ながら乙女を欲しいと思うだろう。そうしたらある提案をしてみようと、腕時計のガラスを指で撫でながら島は思っていた。 
                   おしまい

 *この作品は『浦島太郎』をモチーフにしています。 

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ショートショート作品 『彼は桃からなんて生まれない』 [短編]

ショートショート作品 『彼は桃からなんて生まれない』

**あらすじ***
 ある日浴槽に大きな「桃」が浮いていた。家族は「桃」を食べた。翌朝から80歳代の孝夫と妻の知恵の若返りがはじまった。孫の百合花が祖父母の若返りをネットで相談すると、誘導されたサイトには「桃」を食べた者への政府機関からの警告が載っていた。百合花は懐妊した知恵を逃がそうとするが……。


**本文***
 孝夫は真新しいバスルームに満足していた。冬なのに床は温かく天井の換気口からも温風が吹き込んでいた。昨年だけでも3人の友人や先輩がヒートショックで亡くなっていた。今年85歳になる孝夫にとってもヒートショックは脅威だった。
 シャワーで身体を洗った孝夫は浴槽を見た。嫁の真希が入れたのだろう。湯は入浴剤で鮮やかな紫色に染まりラベンダーの香りがした。バリアフリーなので床と浴槽の縁の段差もない。足先で湯の温度を確かめながら浴槽に入ろうとした時、それは突然浮かび上がってきた。
「知恵はいるかい」
 バスルームに設置したインターホンのボタンを押しながら孝夫が言った。1階の台所とリビングに通じているはずだ。
「はい。なんでしょう」
 嫁の真希の声がした。風呂に入ろうとした時、知恵が2階の炬燵で転た寝をしていたのを孝夫は思い出した。
「真希さん。風呂に何か浮いているんだが、何か入れたかい?」
「入浴剤なら入れましたけど、他には何も……。そうだ。お母様が柚子を入れたのかもしれません。お隣からもらったとおっしゃってましたから。ラベンダーの入浴剤とは合わないんですけどねえ……」
「いや。これはどう見ても柚子じゃないな。もっと大きいし、それに色も黄色じゃない」
「父さん。どうした?」
 インターホンから浩太の声がした。
「悪いが浩太。バスルームに来てこれを見てくれないか」
「今かい。今はちょっとな。後半がすぐに始まるんだよ」
 浩太はリビングで孫の守とサッカーの国際試合を観ていたはずだ。親子ともども高校までゴールキーパーをやっていた。今は守は普通の企業で働いているが、週末には父子でフットサルに興じている。つまり父子揃ってのサッカー馬鹿だ。
「これがあると浴槽に入れないんだ」
「とりあえずどっか隅にでも置いといてよ。後で守となんとかするから」
「わかった」
 孝夫はもう一度浴槽に浮かんだそれを見た。直径が50センチほどのピンクの球体が水面に少し顔を出して浮いている。
「しょうがないなあ」
 孝夫が浴槽とそれの隙間に身体を入れると、いきおいそれを抱えるような格好になった。指先で触ってみた。表面には柔らかな毛のようなものが生えていた。指に力を入れると指先が皮のようなものを破って柔らかなものに触れた。入浴剤とは違う香りが漂った。試しに持ち上げてみようとしたが、かなりの重量である。孝夫は諦めて目の前にそれを見ながら温い湯の中に身体を沈めた。
「あなた……」
 脱衣場から知恵の声がした。孫娘の百合花が心配して知恵に知らせてくれたのだろう。この家で孝夫に優しいのは百合花だけだ。
「お爺ちゃん。大丈夫?」
 百合花の声もした。
「湯船に何か浮いているんだ。知恵、ちょっと見てくれないか」
 バスルームの扉が開いて知恵が顔を出した。
「これだ」
 孝夫がそれを顎で示すと知恵は浴槽の近くまでやって来た。百合花は脱衣場から心配そうに見ている。
「あらまあ。大きな桃?」
「桃?」
 言われて気付いた。今孝夫の目の前に浮かんでいるものは確かに「桃」によく似てる。
「とにかくこれが浮かんでいると邪魔なんだ。なんとかしてくれないか」
 知恵は笑いながら浴槽のそばに来て桃を触りはじめた。
「ほんとに大きい桃ですねえ」
 百合花が、
「ねえ。パパあ。お爺ちゃんが桃が邪魔でお風呂入れないんだって。なんとかしてあげて」と言いながらリビングに去って行く声が聞こえた。やはり自分のことを心配してくれるのは百合花だけのようだ。
 しばらくして浩太と守がやって来た。2人とも百合花に言われて仕方なくという感じで脱衣場から顔を出した。
「なんだこりゃ」
 と浩太が素っ頓狂な声を出し、
「おいおい桃を見つけるのは婆ちゃんの役だぜ」
 と守が嬉しそうに言った。
 浩太と守が2人がかりで桃を運び出してバスルームに静寂が訪れた。
「これでゆっくり出来る」
 孝夫は湯の中に半分顔を浸して思った。入浴剤のせいだろうか。手の甲が滑らかに感じられた。鏡を覗かなければ顔や身体の老いは見えない。だが、手だけは別だ。自分の視界の中にふいに現れて老いを実感させる。現役の頃でさえ無造作に差し出される若い奴の手の強さと張りに嫉妬したものだ。
 ところが、いつもは細かい皺に覆われて染みが浮いている手が、今は若い男のもののように見えた。老眼のせいだろうか。孝夫は湯で顔を洗ってもう一度手の甲を見た。やはりさっきまでと違う。皺も少なくなり染みがほとんど消えている。張りのある手だ。
「真希さん。あれはどこの入浴剤だい」
 風呂から上がった孝夫がリビングに入ると、テレビ画面にはサッカーの国際試合が映っていた。後半15分。日本代表が中東の国に1点のビハインドだ。ところが応援しているはずの浩太も守もソファーにいない。
「どうした。1点負けてるぞ」
 家族はキッチンにいた。テーブルを囲んで皆がそれを見下ろしていた。それの下には大きなビニールシートが敷かれ、明かりの下でそれはさも美味しそうに光っていた。美味しそう? 孝夫は自分の感想に驚いた。そう思ったのはさっき知恵が「桃」とそれを形容したからなのか。それとも今まさに知恵が包丁を持ってそれの前に立っているからなのか。家族たちも知恵の動きを固唾を呑んで見守っている。
「おいおい。まさか切るつもりなのか?」
「そりゃそうだよ。桃は切るもんだよ。なあ」
 守が百合花に同意を求めた。
「桃太郎ならね。そうなるね」
「いや。それはどうかな。中から有害物質が出て来たらどうするんだ」
「有害物質? 父さん。有害物質の入ったものがうちの風呂場にあるわけないだろう」
「それを言うなら、うちの浴槽に桃、いや桃のようなものが浮いているのもおかしいだろう」
「今日風呂場に入ったのは……」
 みんなが真希を見た。バスルームの掃除はいつも真希の役割だ。
「あたしが入浴剤を入れたときにはそんなものありませんでしたよ。ほんとですよ」
「こういうときは誰が得するか考えるといいらしいよ」
 ミステリー好きの百合花が言った。実に理性的な考え方だ。
「桃を浴槽に浮かべて得する奴なんていねえよ」
 守が言った。こんな感情的な長男でこれからの家は大丈夫なのか。孝夫は少し不安を感じた。
「やっぱり父さんだろ」
「私がそんなことをするはずがないだろう」
 大手商社の部長まで務めた男だぞ。と言いそうになったが止めた。こういう言い様はとかく人気がないことも最近やっと分かってきた。
「お父さんがそんなことするはずないでしょう。大手商社の部長まで務めた人なのよ。ねえ」
 知恵が包丁を振りかざして主張し私に同意を求めた。知恵はまだ分かっていないようだ。家族が私を責めるように見た。
「そんな人だからだよ」
「どういう意味だ」
 守の発言についつい気色ばんでしまった。
「現役のときに出世した人に限って老後は孤独なんだってさ」
「役職や地位を引きずって家族には疎まれる。新しい友達もできない、だろ」
 浩太と守はサッカーのパスでもするように孝夫を責めた。
「それがこれとどういう関係があるんだ」
 孝夫はだんだん腹立たしくなってきてそれをにらみつけた。ぜんぶそれのせいだ。桃らしきものの。
「だからさ。寂しいと家族の気を引こうとするんだよ」
「なんだと」
 守のシュートが孝夫の胸を突いた。
「守。それは言い過ぎだ」
「そうよ。守。お爺ちゃんは寂しくなんかないでしょ。あたしたちが一緒に住んでるんですもの」
 息子夫婦が言った。熱のない言い方だった。確かに二世帯住宅に一緒に住んでくれるのはありがたい。だが、浩太は2年前に一流食品メーカーから子会社に出向になった。実体はリストラである。残り2年で退職だが退職金もかなり減額されるらしい。だから、建て直しの費用はすべて孝夫が出した。
「とにかく、あたしはこれを食べるから」
 知恵が包丁を振りかざした。
「キャー」
 百合花が叫んだので知恵の持つ包丁が止まった。
「どうしたの? 百合花」
「だって中に桃太郎がいたら死んじゃう」
「あっははは。ガキだなあ、お前。桃太郎なんかいねえんだよ」
「いるよ。桃太郎はいるよ」
「サンタクロースのことでもあんた達そうやって喧嘩してたわねえ。懐かしいなあ」
「ほんとだなあ」
 親子のこんな言い合いをよそに知恵が桃らしきものに包丁を振り下ろした。
「あっ」とみんな顔を覆った。だが、中に桃太郎はいなかった。桃の甘い香りがキッチンを満たした。
「いい香り。ねえ。食べてみよう」
 百合花の提案に誰も異議を唱えなかった。
 孝夫はすぐに異状に気付いたが、すでにキッチンテーブルの上で巨大な桃は切り分けられ、それぞれが果肉を皿にとってフォークで食べはじめていた。仕方なく孝夫も一切れを口に運んだ。今まで食べたどんな桃よりも甘かった。一口食べると止められなかった。テーブルを埋め尽くしていた果肉を6人の家族であっと言う間に食べ尽くしてしまった。
 翌朝、孝夫が目覚めたときすでに寝室に知恵の姿がなかった。身体がけだるかった。何10年ぶりだろう。知恵が孝夫を求めてきたのは。はじめは冗談かと思った。だが、2度目に知恵が孝夫に触れたとき孝夫は強く反応した。久しぶりの知恵の激しい声には驚いた。だが、いちばん驚いたのは自分自身の中の欲情だった。まるでハイティーンの頃のように何ものも怖れない衝動。3階建てのコンクリート建築なので、3階の孝夫たちの部屋の音が階下に漏れることはないと思うが、そんなことは全く関係なく互いを求めた。
「わーっ。お爺ちゃんもわかーい!」
 エレベーターを降りた孝夫を一目見て百合花が声を上げた。
「おはよう。浩太と守はもう出かけたのか?」
 百合花の歓声に戸惑いながら孝夫が言うと、背中を向けていた知恵が振り返った。それは確かに知恵だった。だが、10年、いや30年前の妻がそこに立っていた。
「あなた。何をおっしゃっているの。もう10時ですよ」
先月80歳になったばかりの知恵は綺麗な白髪だった。ところが今朝の彼女は50歳の頃の綺麗な黒髪に戻っていた。それだけではない。目の周りの皺がなくなって大きな目の輝きも蘇っている。
「お母様もお父様もいったいどうなさったんですか?」
 真希が孝夫と知恵を見比べながら言った。目は怯えで小刻みに震えていた。
「たった一晩でそんなに変わるなんて……」
 戸惑っている真希をよそに百合花は「すごいすごい」と知恵と孝夫に抱きついた。
「あなた鏡をご覧になって」
 呆然と立ち尽くしている孝夫に知恵が言って洗面所へと連れて行った。孝夫は鏡の中を見て心底驚いた。そこにいるのはまさに50代の頃の自分である。昨夜まではすっかり禿げ上がっていたはずなのに黒々とした髪が頭を覆っている。顔つきにも商社の部長として部下を叱咤していた頃の覇気があった。まさに孝夫が理想の自分として持っているイメージそのものだ。
「こんなことが……」
「……奇蹟だ」と百合花が言った。
「悪夢よ……」と真希が言った。真希はミッション系の学校に行っていただけあって、今でも聖書を愛読し教会にも時折通っていた。洗礼名はミッシェル。食前食後のお祈りを忘れない。
「いえ、悪魔の所業かもしれません。すぐにエクソシストを……」
 けして冗談ではない。真希の顔は真剣だった。
「ママ。これは神様のなさったことよ。真面目に生きているお爺ちゃんお婆ちゃんにご褒美をくださったに決まってる」
 百合花は孝夫たちの周りを跳ねながらながらそう言った。この子は本当にいい子だ。孝夫には百合花の背中に天使の翼が見えた。
 その夜は家族会議だった。
 家族全員が昨夜桃を貪ったテーブルを囲み、この奇怪な出来事にどう対処するかを話し合った。真希のSOSで早めに帰宅した浩太と守はまだ孝夫と知恵をちらちらと見ている。この事態をどう受け止めていいのか困惑しているのだ。こういうときは女性の方が柔軟な対応力を備えている。
「何が問題なのかわかんない。お爺ちゃんお婆ちゃんが若返って何かいけない」
 百合花が口をとがらせて言うと、すかさず真希が反論した。
「若返るってことが問題なのよ。神様はそんなことお許しにならないわ」
「毎日鏡見ながら『ああ神様。もう一度10代の肌にしてください』って祈ってるのは誰よ」
「い、祈るのと現実にそうなるのとは別よ」
「他人に起こった奇蹟は認めないんだ。嫉妬は見苦しいっていつも言ってる癖に」
「百合花!」
 真希が立ち上がったのを浩太が間に入って止めた。
「真希。冷静になれ。百合花も口が過ぎる」
「……ごめんなさい」
 百合花が謝ると真希も渋々腰を下ろした。
「それにしてもお父さん。何があったんですか?」
「それは私にも分からない。知恵も私も朝起きてみたらこうなっていたんだ。いちばん戸惑っているのは私達だよ」
 そう言いながら孝夫は自分の声の響きが肉体も精神も充実していたあの頃に戻っていることに気付いた。そんな孝夫に知恵が微笑みかけた。朝からさらに数歳若返ったように見える。
「すげえよ。親父やお袋と同じくらい。いや、もっと若くみえる。こんなことってあるんだなあ」
 守が祖父母の顔を見つめながら言った。
「もしかして、あの桃のせいかな」
 百合花の呟きに皆が反応した。
「でもよ。桃ならみんな食べただろ。むしろ俺たちの方がお爺ちゃんお婆ちゃんよりもたくさん食べた。でも、何の変化もない」
「そうだな。食べ過ぎてちょっと腹の具合が悪かったけど、それ以外は特に変わった感じはないな。どうだ。少し若返ったように見えるか」
 浩太が真希に尋ねた。
「いいえ。少しも。昨夜のままだわ。あたしはどう?」
「お前も変わらないなあ」
 浩太と真希の夫婦は互いの顔を見つめながら、ほとんど同時にため息を吐いた。
「お婆ちゃん。その服さあ。もう似合わないよ。ママの服借りたら」
「あら。そうかい。真希さん。ちょっと貸してくださる」
「ええ……それはかまいませんけど」
「ねえ。もっと若返ってあたしの服も着られるようになったりして」
「そんな馬鹿な」
 とその夜は誰もがそう思った。だが、百合花の言葉は現実になった。孝夫と知恵は毎朝起きるたびに若くなり、1週間もすると30代にしか見えなくなり、桜が咲く頃には20代の若者になってしまった。
「とにかくお父さんもお母さんもあまり外に出ないでくださいね」
 と浩太と真希には言われたが、20代の若者を家に閉じ込めておくことはできない。2人は昼間は肩を並べて公園を走り、夜になると仲良くクラブに繰り出した。
 その間、浩太は会社の上司に生物学の権威である教授を紹介してもらい2人に起こったことを内密に相談した。教授は2人の身体を子細に検査して学会に報告すると言った。真希は神父を通してカソリック教会に相談をした。この話はローマ法王庁にまで上がり「神の仕業か悪魔の所業か」で論争を巻き起こしたという。守はフットサルの仲間にこの話をしたが信用されず、飲み会に知恵を連れて行った。独身の連中は美しい知恵を見て色めき立った。だが、誰も守の話を信じなかった。

 百合花はネットで質問をしてみた。
(うちのお爺ちゃんお婆ちゃんは毎日若返っています。素晴らしい奇蹟です。でも、家族は戸惑っています。理由が分かればみんなが祝福できると思います。どなたか理由を御存知の方は教えてください)
 たくさんの返事があったが、たまたま4月1日だったのでへたな嘘として扱われたのだろう。(お婆ちゃんとのデートを希望します。5万までなら出します)などというふざけた返事ばかりだった。真剣に質問をした百合花は当然気分を害した。だが、中に一つだけ。
(お2人は桃を食べませんでしたか?)という返事があった。
(はい。食べました)と書き込むと、
(では、次のURLに進んでください。このURLはあなた専用です。他の方はアクセスできません)
 百合花は少し悩んだが、祖父母に起こった奇蹟について知りたかったのでアクセスした。それは『桃に気を付けろ!』というサイトだった。
「ある日、突然家の中に大きな桃が出現することがあります」
 多数の桃の画像がアップされていた。ソファーやベッドの上、クローゼットやシンクの中、テーブルや椅子の下、猫のトイレに鎮座としているものもある。
「あなたはこの桃を食べたいと思うかもしれません。もしまだ食べる前でしたら、お待ちください。これは罠です」
 そこに大きな赤い髑髏マークが出て来た。だんだん演出が過剰になってきた。これは詐欺めいたサイトの特徴である。さすがの百合花も警戒した。
「試しに包丁で切ってみてください。大丈夫。桃太郎は入っていません(笑)」
 こういうギャグセンスも百合花には理解できなかった。クローズしようと思ったが、孝夫と知恵の優しい笑顔が浮かんで思い直した。もちろん、若返る前の2人の顔である。
「ほら、中にタネがないでしょう。異常な食欲が湧いてくるはずです。もう一度言います。ここで踏みとどまってください。簡単なことです。丸ごと捨ててください」
 タネがないことも異常な食欲が湧いたこともその通りだった。不思議なことに百合花はそれが普通でないと今まで意識していなかった。
「これは私どもの研究で分かったことですが、甘い桃の香りの中に理性を鈍化させる効果があるようです。ですから捨てることができなくてもけしてあなたの責任ではありません。では、ここからは食べてしまった方へのアドバイスです。桃を食べた家族の方の一部、特に御老人に若返りの兆候が見られたら至急私どもにご通報ください。通報は義務です。義務を怠った方にはそれなりのペナルティが科されます」
 ここで再び赤い髑髏マークの点滅。
「若返りも罠です。今までの報告では若返った方すべてが80歳を超えた御老人です。人間の欲求があらかじめDNAに仕込まれているように、細胞が劣化した老人を若返らせることで盛んな生殖活動へと導き、植え付けたタネが人間の形で発生するようにプログラムされているのです。ですから、万一すでに女性が懐妊している場合には早急にご連絡ください。産まれてくるものは人類にとって大変危険です」
 そこには「通報する」という赤いボタンが激しく点滅していた。
 百合花はパソコンを荒々しく閉じた。そして思い直してもう一度パソコンを開くとアクセスしていたサイトから出た。百合花は小学生の頃から使っていた学習机の前で震える自分を抱きしめた。動悸が収まらなかった。自分はとんでもないことをしてしまったのかもしれない。もしも今のサイトが政府機関のものだったら、すぐに百合花の名前も家も突き止められてしまう。そうなったら……。
 百合花は深呼吸をして今起こったことを冷静に検証しようとした。でも、楽観的な要素はどこにも見当たらなかった。それどころかバッドエンドが様々な形で次々と脳裏に浮かんだ。とにかく確かめなくては……。
 百合花は2階に降りて祖父母の部屋のドアをノックした。すぐに「はあい」という祖母の若々しい声が聞こえてドアが開かれた。
「あら、百合花ちゃん。今ね、桜餅を食べてたの。あんたもどう?」
 百合花に微笑みかけているのは、百合花よりもちょっとだけお姉さんの美しい女性だった。今、包装を開いたばかりの新品の笑顔だ。おそらく若かった頃の現実の祖母よりもずっと光り輝いているに違いない。
「うん。お婆ちゃん。あのね……」
 知恵は白地に花柄のワンピースを着ていた。先週百合花がプレゼントしたものだ。そのワンピースの下腹のあたりが少し膨らんでいる。
「やっぱり分かる? 1ヶ月ですって。ごめんね。あんたの叔父さんか叔母さんが産まれるみたい」
 知恵は百合花を部屋に招き入れながら言った。ソファーにはまるで映画俳優のような笑顔を浮かべて1人の青年が悠々とワインを飲んでいた。祖父でなければ5分で恋に落ちてしまいそうな魅力的なオーラをまとって。
「よお、百合花珍しいな。桜餅食ってけ」
「お爺ちゃん。お婆ちゃん。あたしの話を聞いて。まじでやばいことになってるかも……」

 その日の深夜、その男たちが侵入して来た。
 3階のベランダから侵入し、まずは守。階段を降りて孝夫と知恵、そして最後は1階に寝ていた浩太と真希を殺害した。浩太は上の階の物音を聞きつけ、階段下の物置からゴルフクラブを取り出して待ち伏せた。最初に降りて来た男の頭にクラブを叩き付け重傷を負わせたものの、後続にあっさりと制圧されてしまった。ただ1人百合花の行方が分からなかった。男達は暗視ゴーグルをしたまま家中を探し回ったが見つからなかった。午前2時頃、本部の命令で家に火を点け男達は撤収した。

「本当にこれで良かったのかねえ」
 知恵は百合花の春物のコートを着て男の車に乗っていた。男は俊也と言って、百合花の秘密の恋人だった。2人はまだその夜の惨劇を知らなかった。
「百合花は言い出したらきかないですからね」
「ほんと誰に似たんだか」
 俊也はその日百合花から「助けて」というメールを受け取った。急いで家に駆けつけると、
「これあたしのお婆ちゃん。しばらく預かってくれない」と言われた。
 傍らにはピンクのセーターに春物のコートを羽織った20歳代の女性が立っていた。それは俊也が今まで一度も見たこともない種類の女性だった。夜の闇にも隠しきれない美貌に目が眩んだ。百合花がいきなり彼のすねを蹴った。
「何見とれてんのよ。いい? 誰にも知られちゃ駄目だからね。ちゃんとあんたの村で匿ってよ」
 俊也と百合花は中学校の同級生だった。3年生のとき、俊也がいじめをきっかけに行方不明になってからも百合花とだけは連絡を取り合っていた。彼は長野と静岡の県境にある隠れ里に同じような境遇の人々とともに暮らしていた。百合花でさえもその場所がどこかは知らない。ネットに詳しい俊也はいつも違うメールアドレスを使い連絡をよこした。そして読んだメールは自動的に消去された。俊也の居場所も村の場所も誰にも知られていなかった。だから、百合花は知恵を俊也に託すことにしたのだ。
「君は大丈夫なのか?」
「いくらなんでも、今夜すぐに動きがあるとは思わない。でも、万一のときには仇をとってね」
 百合花はそう言うと俊也に口づけをし、車を見送った。
 
 助手席にいた知恵がいきなり「あっ」と声を上げた。
「大丈夫ですか?」
 俊也が尋ねると、知恵は下腹を押さえながら、
「動いた。びっくりした。まだ1ヶ月なのにこんなに跳ねるなんて」
 と言った。
「ここで少し休憩しましょう」
 車は神奈川から静岡に入ったところで修理工場に入った。すでに夜が明けていた。男が来てナンバープレートを交換しはじめた。俊也は知恵に手を貸して車から降ろすと、工場の奥にある事務所に案内した。
「ここは僕の仲間の工場です。念のためナンバープレートを交換します」
 事務所のソファーに座って日本茶を飲んでいるとナンバープレートを替えていた男が戻って来た。
「紹介します。猿田です」
「初めまして。犬山百合花です。お世話になります」
 汚れたつなぎを着た猿田は眩しそうに知恵を見た。百合花と名乗った知恵を俊也は驚いて見た。
「なあ雉子尾。この人がお前の?」
「あ、ああ。まあな」
「羨ましいなあ。こんな綺麗な……あれ? あなた犬山百合花さん? 千葉市の?」
「え、ええ……」
 猿田は軍手を外すとそばにあったリモコンをテレビに向けた。テレビがついて朝のニュース映像が流れる。
「本日未明千葉県千葉市で火災がありました。この火災で亡くなった方は犬山孝夫さん85歳、妻の知恵さん80歳、息子の浩太さん58歳、その妻の真希さん54歳、そして孫の守さん24歳です。なお孫の百合花さんの行方がまだ分かっていません。出火の原因は浩太さんの煙草の火の不始末が原因であると……」
 知恵が悲鳴を上げて泣き崩れた。俊也はそばに寄って知恵を抱きしめた。
「浩太は煙草なんて吸わないのに……ひどい」
「知恵さん。いえ百合花さん。これからは僕があなたとその子を守ります。そしていつかきっと仇をとってやりましょう」
 泣いていた知恵が何か呟いた。俊也が耳を澄ますとそれは歌であることが分かった。
「……太郎さん、桃太郎さん。お腰につけたきびだんご。ひとつ私にくださいな。あげましょう。あげましょう。これから鬼の征伐に、これから鬼の征伐に、これから鬼の征伐に、着いてくるならあげましょう」
                            おしまい

 *この作品は『桃太郎』をモチーフに書きました。

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童話『穴~キツネとネズミの物語』 [短編]

『穴~キツネとネズミの物語』  高平 九

はしがき
 脚本として書いたものを童話にしてみました。ひとつの寓話として読んでください。

あらすじ
 洞窟の中の穴をはさんでキツネとネズミが出会います。どちらも飢えています。キツネは獲物を得るためにネズミにある提案をするのですが……。

本文
 そのネズミは洞窟の中に住んでいました。
 ある日ネズミは、洞窟の奥にやっと通れるほどの小さな穴を見つけました。洞窟の中は仲間が増えすぎてエサが足りません。虫もコケも食べ尽くしてしまいました。ネズミは穴を通って新世界に行こうと中を覗きました。
 キツネは洞窟の中に住んでいました。
 キツネは洞窟の奥に鼻先がやっと入るぐらいの小さな穴を見つけました。洞窟の中にたくさんいたネズミは彼の家族が全部平らげてしまいました。穴の向こうからはネズミの鳴き声があんなに聞こえています。キツネはたまらず鼻を突っ込んで匂いを嗅ぎました。
「ああ、美味しそうな匂いだ。くんくん」
「うわーっ」ネズミが驚いて叫んだ。
「わーっ」その声にキツネが驚いた。
「……なんだネズミ君か、脅かすなよ」とキツネ。
「お、お前はキツネだな。……僕のお兄ちゃんをさんざん弄んで食べもしなかったキツネだな」とネズミ。
「いやいや、僕はそんなことはしないぞ。ネズミを捕まえたらきちんと残さずいただくよ。それは大方、あの礼儀知らずのネコの仕業だろう。奴らは人間に飼い慣らされて十分にエサをもらっているから、ネズミ君たちを食べる必要がないのさ。ただ、殺すために殺してる。ひどい奴らだ」
「……でも、あなたも僕らを食べるんでしょう」ネズミがおそるおそる尋ねると、
「そりゃ、な」
「ひぇー」と叫んで逃げようとするネズミを、
「ちょっと待てよ。こんな小さな穴は通れないよ。君がこちらにやって来ない限りは安全だよ」とキツネが引き止めました。
「……ほんとに」
「ホラ……鼻がやっとさ」暗い穴の向こう側に大きなキツネの鼻がありました。
「……すっごい鼻だね」
「ははは。キツネをこんなに近くで見られるネズミなんてめったにいやしない。見物(けんぶつ)だろ」
「そ、そうだね。……うわーっ、ずいぶんつり上がった目をしてる。それに、その口……やっぱり、さようなら」
「おい、待てったら。まったく臆病なネズミだなあ。僕もネズミと話すなんてめったにないんだ。今だって腹ペコで……あっ、いや……」
「ぼ、僕を食べたいの?」ネズミは恐ろしさに耐えて尋ねました。
「そりゃあ……な」
「僕だって、はらぺこさ」
「君たちはいったい何を食べるんだい?」
「そりゃあ虫とか苔とか……」
「えっ?虫だって……。虫ならこっちにわんさかいるよ。よくこんな気持ち悪いもの食えるね」キツネの廻りには汚らしい虫たちが飛び回っていました。キツネは身体のあちこちにまとわりつくそいつらが大嫌いでした。
「虫は旨(うま)いよ。特にあの羽虫(はむし)の旨さときたら……」
 キツネの耳にネズミの唾を飲む音が聞こえました。そのときキツネはとてもいいことを思いつきました。
「なあ、ネズミくん。なんならそっちに虫を追い込んでやろうか。ぶんぶんうるさい羽虫もたっぷりとさ」
「そりゃあ、そうしてくれたら……ごっくん……うれしいけど……」
「なら、ほれ」キツネが穴から虫たちを追い込んだので、反対側の穴からたくさんの虫があふれ出てきました。
「うわーっ、こりゃすごい……モグモグモグ」
「どうだい旨いかい?」ネズミは食べることに夢中でキツネの恐ろしさも忘れていました。
「ところで、ネズミくん……食事中悪いけどさ。少し僕の話を聞いておくれよ」
「なんだい……話って……ゲップ」
「なんなら、これから毎日、そっちに虫を送ってやってもいいんだよ」
「えっ、本当……ゲップ」
「本当だとも。その代わり……」
「……えっ?」
「その虫を君が独り占めするのはどうだろう。仲間たちにも少しばかり分けてやってもいいんじゃないかい」
「いいのかい?仲間を呼んでも……ゲップ」ネズミは喜びました。仲間のネズミたちはみんな飢えていたからです。
「いいさ。ただ、君の仲間ってすごい数いるんだよね」
「ああ、どんどん増えるからね……ゲップ」
「それじゃあ、こっちにいくら虫がいてもあっという間にたいらげてしまうんじゃない?」
「大丈夫だよ。今日は久しぶりだったから僕も食べ過ぎるぐらい食べてしまったけど、次からは少し我慢してみんなで分け合えばいいんだ」
「そうかな」
「えっ?」
「みんなで食べたら、いつか尽きてしまうって分かり切ってるんだよ。それだったら、今のうちに食べようって、みんなお腹いっぱい食べるんじゃないかな」
「そんなに馬鹿じゃないよ」ネズミはちょっと不快でした。力は及ばないものの、知恵ではキツネに負けないと思っていたからです。
「そうだね。取り越し苦労かもしれないね。でも、そんなに利口ならなんで今、そっちに虫がいないんだろう。少し加減して食べていたら、虫はいなくならなかったのかもしれない」
「そ、それは……」
「やはりネズミの数が多すぎるんじゃないかな。なんなら減らす手伝いをしてやってもいいんだけど……」
「えっ?……それって」
「そうさ。僕たちが手を組めば、穴のそっちもこっちも幸せになれるんだ」
「それは……できないよ」
「おいおい、さんざん食っておいてそれかよ。難しいことじゃないんだぜ。虫がいるぞって言って、君の嫌いな奴を何匹かこの穴に誘い込めばいいんだよ。あとは僕の方でやるからさ。いるだろ、死ねばいいって思ってるネズミの一匹や二匹」
「そんなの……いない」
「嘘つきだな。君は」
「ちがう」
「じゃあ、恩知らずかい」
「それも……ちがう」
「なら、あとは誰かを呼んでくるだけだろ。どうせ、放っておいたら飢えて死んじまうんだ。少しぐらい危険でも腹いっぱい食いたい奴がいる。必ずな。そういう奴に声をかけりゃいいのさ。簡単だろ」
「それだけ。僕の仲間も僕と同じようにたらふく虫を食べられるの?」
「そうさ。そいつらが穴のこっちまで来れば虫は食い放題だ。そうしたら、さっきみたいに君には虫を送り込んでやるよ。誰も損をしない、楽な取り引きさ」
「……わかった」そう答えたネズミは穴のそばを離れました。もちろん仲間に声をかける気はありませんでした。ところが、家族の元に帰る途中で日頃身体の小さな彼を面白半分に噛んだりひっかいたりする乱暴者たちに出くわしてしまいました。
「あれっ? おい、こいつ鼻先に虫の羽をつけてるぜ」
「兄貴、そりゃあ兄貴の好物の羽虫じゃねえですか。おい、こいつどこで虫を見つけやがった。ガブッ」悪いネズミが腕を嚙んできました。
「虫なんて知らないよ。大方どっかで羽が付いたんだ」ネズミは痛みを堪えて言いました。
「クンクン。おい、嘘はいけねなあ。お前の口から虫のいい匂いが漂ってるぜ。腹だってそんなにふくれて……」
「ゲップ……あっ」
「こいつゲップだってよ」
「ここ何日もろくに食ってない俺らの前で。この野郎。どこだ、一体どこでたらふく食ってきやがった。言わねえと、お前の腹を引き裂いて虫をいただくぜ」
 ネズミは仕方なく、さっきの穴のところへと二匹を案内しました。
「そこだよ。そこの穴の向こうにたくさん虫がいる」
「嘘じゃねえだろうな」
「兄貴、この穴の周りにたくさん羽虫の羽が落ちてやすぜ」
「よし、そんならまずお前が入れ」
 兄貴分のネズミが言いました。
「えっ?僕?」
「そうだ。さっき入ったんだろう?」
「……うん」
「なら、もういっぺん入ってみせろ」
「兄貴、穴の向こうから旨そうな羽音がしてますぜ。そんな奴放っておいて早く行きましょう」
「まあ待て。さあ、お前が先だ」
 ネズミは仕方なく穴に入りました。二匹のネズミは少し間を取ってついてきます。穴を抜けると、さっきのキツネが壁にピタリと身体を寄せて待ち伏せしていました。耳まで裂けた口には白く鋭い牙がずらり並んでいます。キツネの目は糸のように細められていました。笑っているのです。ネズミはいきなり前方に走りました。二匹のネズミもつられるように走って虫の中に突進しました。二匹が虫に夢中になっているのを横目で見て、ネズミはきびすを返し穴に逃れました。
「あーっ!」
 ネズミたちの絶望の鳴き声。ガツガツという、キツネが獲物を骨ごと噛んで味わう音。
 ネズミはたまらず目をつむり、大きな耳を前足で覆いましたが、音は敏感すぎる聴覚を刺激し続けました。……しばらくすると、音がたくさんの羽音に変わりました。目を開けたネズミのまわりはおいしそうな羽虫で埋まっていました。
「へへへ。ありがとうよ。やせっぽちのネズミたちだったけど、とりあえずひとごこちついたぜ。お前も好きなだけ食いな」
「……もう、やだ。こんなことしたくない」
「傷ついたか。悪かったな。飢えるとついつい悪いことを考えちまう。今は俺も反省してるよ。お詫びと言っちゃなんだが、お前の家族とか友達を呼んで、その羽虫で宴会でもやれや」
 ネズミは二度とこの場所には来るまいと思いました。壁や地面に自分の罪がこびりついているように感じたからです。とりわけ、まだ虫を吐き続けている穴は、今キツネに食われた二匹のネズミの死が色濃く匂っているようでした。
 やっと家族の元に戻ったネズミは、彼らが思いのほか弱っていることに驚きました。彼が姉妹に産ませた子どもたちなどは、萎んだピンクの花びらのように身を横たえて息も絶え絶えの様子です。さっきまでは自分も同じように飢えていたのでこの恐ろしい状況に気づかなかったのでしょうか。ネズミは思わず自分の腹の出っ張りを見せて、
「お腹いっぱい食べさせてあげる。僕についてきて」と叫んでいました。何も知らない彼の家族は穴の近くにやってきて、存分に虫を食べました。そして、久しぶりに腹いっぱいの虫を食べた彼らは、その場でぐっすり寝込んでしまいました。穴の向こうから不気味な笑い声が聞こえてきました。
「くくく。どうだい。みんな喜んだろう。お前は家族を救ったヒーローだな」
「ちがう。僕は仲間を売ったひどい奴だ」
「いいじゃないか。あの二匹はお前を盾にするような奴らだった。どうせ無理やりここへ案内させたんだろう」
「……そうだけど」
「そんな奴ら食われて当然さ。どうだい。さっきの奴らのような悪いネズミをこの穴に誘い込んで退治するってのは。そっちの洞窟は平和で豊かになる。これ以上ない手段だと思うぜ。これこそ正義だよ。ネズミ君」
「その悪いネズミをあんたが片っ端から……その」
「ごちそうになります。えへへ。心配するなよ。俺の手に余るようなら、俺の家族を呼んで手伝わせるからよ」
「家族……いるんだね」
 ネズミにはこんな残酷なことをするキツネにも家族がいることが信じられませんでした。
「当たり前だろうが。俺だけじゃねえ。あのネコにだって、そのネコを食らう狼にだって家族はいるんだぜ。みんな家族のために必死なのさ。……どうもお前には、必死さが足りないみてえだな」
「そ、そんなことはない。僕だって必死だ。家族が飢えて死ぬのは堪えられない」
「そうだろ。それが生き物の普通の感情だよ。俺の提案の通りにすれば、お前の家族は誰も飢えずに済む。もちろん、俺の家族もね。八方丸く収まるじゃねか」
「あーっ!」ネズミは思わず叫んだ。
「びっくりした。……大丈夫か、ネズミ君」
「もうわからないよ。僕は、僕はどうしたらいいんだ」
「面倒くさい野郎だぜ。考え過ぎなんだよ。本能に従って動けばいいのさ。生き物はみんなそうしてる」
「ねえ、ひとつ聞いていいかい」
「なんだ」
「もし悪いネズミを全部そちらに送ってしまったら……その後はどうなる?」
「そりゃ……大丈夫さ。悪いネズミなんて山ほどいるだろ」
「でも、どこまでが悪いネズミなのかな」
「簡単じゃねえか。お前が悪いと思った奴が悪いネズミなのさ」
「僕が……それじゃまるで」
「そうだよ。お前はあの人間と同じってことさ。人間様が悪いって決めた動物は殺していいんだ。知ってるか。奴らは牛や豚、それに鶏にエサをやって育てるんだぜ。育ててどうすると思う。……食うんだと。なんだそれ、牛も豚も鶏も誰も殺したりしねえ」
「そんな無害な連中を食っちまうんだとよ。どうかしてるぜ。でもよ。奴らはそれができる。力があるからな。お前もそれを持てるってことだ。いい話じゃねえか」
「僕はそんな力はいらない。人間なんかにはならない」
「そうか、そうか。いいよ、もう。黙って家族が飢えて死んで行くのをみてりゃいいさ。でも、覚えておけよ。お前が少しだけ泥水を飲めば、家族は飢えずに幸せになれるんだ。自分が嫌な思いをしたくないからお前は家族をみすみす飢え死にさせる。そのことをくたばる前に思い出すんだぜ」
キツネはそれきり黙りました。でも、穴の向こう側でネズミの答えを待っているに違いありません。それはかすかに聞こえるキツネの息づかいから分かりました。ネズミは迷いました。ネズミは善いネズミでいたかったのです。でも、善いネズミであろうとすると、家族は飢えて死んでしまいます。家族を救おうとすれば、今度は善いネズミであることを捨てなければなりません。
「僕は、僕はいったいどうればいいんだ」
 ネズミは小さな頭を前足で何度も叩きました。その音は洞窟の中に響き渡りました。
 もちろんその音は穴の向こうのキツネの耳にも届きました。

                  おしまい

読んでいただきありがとうございました。感想をコメントとして書いていただけると嬉しいです。

↓ 本文と全く関係ありませんが、大好きなフランク・キャプラの映画です。心温まる映画に癒されたい方にお勧め。拙作『カリホルニアホテル』はこの映画へのオマージュです。


ポケット一杯の幸福 [DVD]

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小説『塀』 [短編]

『塀』 高平 九

隣の家との境に塀ができたのよ。ヘーッ。無視された。妻はワイシャツにアイロンをかけながら、すごく高い塀なのよと言った。カッコイイ。また無視された。

土曜日。五月の空がとても高い午後。私はパジャマ姿のまま、リビングのソファーで新聞を読んでいた。

それでね、うちのベランダに陽が当たらなくなっちゃって。ほら。
妻がアイロン掛けの途中のワイシャツを私の鼻先に押し付けた。なるほど少し臭うかもしれない。

とにかく非常識に高い塀なのよ。あなたから隣のご主人に話してくださらない?ゴルフ仲間でしょ。
そういえば、私が25年働いた職場をリストラされて今の職場になってからは、電車の時間も変わったこともあって隣人と会うことがなくなった。それに前の職場から比べれば今のところはあまりに零細だった。小さな会社である分、働きがいもあったし人間関係も悪くない。でも、この町で暮らすには不釣り合いだった。そんなこんなで、大企業の部長に出世したばかりの隣人とはあまり顔を合わせたくなかった。
 
アイロン掛けを続けている妻の背中を見た。笑いのツボにズレはあるものの、気のいい女だ。結婚して20年私を支えてくれた。1人娘はこの春からフランスの大学に留学している。残念だが、この高級住宅街から出て小さなマンションにでも移るしかない。それともいっそ実家にでも戻るか。

次の土曜日の夕方。リビングのソファーで新聞を読んでいると、妻がまた「塀」の話を蒸し返した。

それがね、まるで塀がうちを囲んでるみたいなのよ。キッチンで味噌汁の具でも切っているのだろう。包丁の音がせわしなく鳴っている。もともと低い塀があった両隣と裏の家は分かるけど、玄関の前の塀はいくらなんでもねえ。

先週のうちに隣との庭の境だけでなく反対側、そして裏の家との境にも高い塀が出来た。そして今朝はとうとう玄関前にも塀が出来たというのだ。そうだなあ。そりゃカーベー(勘弁)だ。また無視かよ。

仕方なく夕飯のあとで玄関前の塀を見に行った。確かに我が家の門の前に白い塀が立ちはだかっている。高さは二階建ての我が家をはるかに越えて、見上げると直線で切り取られた五月の空がこちらを覗きこんでいる。

昨夜帰宅したときにはこんなものはなかった。いつの間にこんなものを作ったのだろう。
実は四方を塀に囲まれたのは私にとって都合がよかった。妻には言いそびれていたが、昨日新しい職場から解雇を言い渡されたばかりだったからだ。これで仕事に行かない口実ができた。それより何より、明日の朝刊は届くのだろうか。

塀を壊すしかないか。口先だけで言ってみる。だめよ。そんなことしたら、お隣さんが怒るわよ。知るかよ。もともとこんな非常識な塀を立てたのがわるいんだ。そうだ……玄関の前の塀なら壊しても文句を言う奴はいないんじゃないか。
だめだめ、家の前に塀を立てたとしたらお国かお役所がやったことでしょう。お隣より厄介だって。
あれ? ハハハ。おい見てみろよ。馬鹿だなあ。塀を高くしすぎて下の方が開いちゃってるぜ。
塀と地面の間が30㎝くらい空いている。アラ、ホント。
明日ここから隣に行って事情を聞いてみるよ。今日行ってくださらないの。
うん? ああ、そうだな。隙間を見下ろした。ここを這って出るのはちょっと面倒だ。明日の朝はやくに行ってくるよ。……そう。
ほっとした。とりあえず朝刊は届きそうだ。

翌朝、家の中に妻がいなかった。風呂の浴槽や冷蔵庫の中まで見た。おーいという自分の声がむなしく響く。最後に玄関に行った。夜はとっくに明けたはずなのに外は真っ暗だった。玄関に戻って門柱の明かりを点けてみる。白い壁が恐ろしい形相で立ちつくしていた。とっくに昨日の隙間はなくなって塀が深く深く地面に食い込んでいた。
塀の内側に今朝の朝刊がつまらなそうに落ちていた。

新しい夫は犬を飼っていた。女は犬の散歩を口実に毎日その箱の様子を見にやって来た。
犬はきまってその箱に向かって吠えた。女はフランスの娘から送られてきた絵はがきを入れてやろうとしたが、その箱にはどこにも隙間がないのであきらめた。
高級住宅街の景観を壊していた大きな四角い箱は次第に小さくなっていった。それにつれて犬も関心をしめさなくなった。
やがて物置ぐらいに縮んだと思ったら、翌日にはとうとう片手で持てそうな小さな白い箱になっていた。女は犬を引いて、ついでにその箱を持って新しい家に帰ることにした。

                  おしまい

読んでいただきありがとうございました。御感想をコメントしていただけると嬉しいです。
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小説『幸福な女』 [短編]

『幸福な女』 高平 九

はしがき
 これまたあるコンテストに応募した作品です。ワイルドの有名な童話『幸福な王子』を題材にしています。怖くて不気味な作品になってしまいました。覚悟してお読みください。

あらすじ
 年末のある夜。ホームのベンチで話す2人のサラリーマン野口と山田。2人はなぜか1人の女をはさんで話している。山田は最近リストラに遭ったが、やっとのことで再就職が決まったらしい。そんな2人の話に何の反応も示さない静かな女のその正体は……。

本文

 年末のある夜ことでした。その駅の上には上弦の月があって、ホームのベンチに座った女を美しく照らしていたのでした。
 女から少し離れたベンチの端で男がスマホをいじっています。くたびれたコート、通勤用の黒い鞄。どうやら普通のサラリーマンのようです。
 階段から男がひとり降りてきました。男はベンチの女を見て立ち止まりました。そして、その奥にいる男にも気づきました。
「野口さん?」
「ああ山田さん、お久しぶりです」
 山田と呼ばれた男がベンチに座りました。山田と野口の間には女が座っています。
「ほんとお久しぶりですねえ」野口は月を見上げながら言いました。
「ちょっと事情がありまして……」と山田も月を見上げながら言いました。
「そうですか……」と言った野口を月が見下ろしていました。
 会話が途切れ気まずい雰囲気になりましたが、女は黙ってうつむいています。
「リストラされちゃって」と女の前に顔を出して突然山田が言いました。
「えっ?」驚いた野口が思わず女の後ろから顔を出しました。
「前に話したじゃないですか、気の合わない上司がいるって、ある顧客への対応でその関係が決定的になってしまって」
「それでリストラですか…ひどいなあ。一所懸命やってらしたのに。ついてないですね。」
「野口さんに警告していただいたのに、結局同じことを繰り返してしまいました。すいません」
「いや、そんな。私こそ山田さんの力になれず、すいませんでした。」
 また気まずい空気です。さすがに月もそっぽを向いて雲に隠れました。
「それで、今は……」野口が心配そうに尋ねました。
「しばらくは遊んでいましたが、今日やっと再就職先が決まりまして……」
「そりゃよかった。じゃお祝いしないと。久しぶりにどうです?」と言って野口がコップを持って酒を飲むポーズをとると、「ありがとうございます。野口さんのところや前の会社と比べたらほんとに吹けば飛ぶような零細なので、お祝いなど恐縮です」
「そんなこと言わずに……」
「そうですか?それでは少しだけ……」
 ほっとしたように月がまた顔を出しました。ほんとうに人の横顔のような月です。
「これ」とふいに野口が言いました。
「えっ?」山田が驚いて2人の間の女を見ました。
「クリスマスのあとからだから、かれこれ1週間になります」
「そうですか。1週間になりますか……」
「夏場でなくてよかった。匂いがね」
「少し匂いますかね」
「口のあたりがひどいです。でも、まあ夏じゃなくてよかった」
「そうですね」
 月が怪訝そうに2人と女を見つめました。
「最初の頃は素敵でしたよ。上品な香水が薫っていて、クリスマスらしくお茶目に三角帽子なんかかぶってて……だからね」
「はい?」
「シャルウイダンス」と野口が立ち上がって、ダンスのポーズをしました。
「えっ?」山田も思わず立ち上がりました。
「その夜はホームに誰もいなかったんですよ。かなり酒が回ってたんでしょうね。それにあの曲が……なんて言いましたっけ。映画で使ってた……えーっと、デミ・ムーアの出てた……」
「……ああ、『ゴースト』……アンチェインド・メロディですか」
「そう、それそれ。あの曲がどこからともなく流れてきて、思わず一緒に踊っていました」
「誰と?」
「だからこちらと」と野口が女を指さしますが、女は黙ったままです。
「こちらって……えーっ!こちらですか!」
「かなり重たくて途中でホームから落ちそうになりました」
「そんなことが、あったんですか」
「ええ。いい思い出です」と野口がベンチに座ります。
「思い出ねえ」と山田もベンチに座ります。
「それにしても、たった1週間でずいぶんみすぼらしくなっちゃったな」と野口。
「はあ」
「高級ブランドの服着ていたし、高価そうな指輪やネックレス着けてたんですよ。みんな誰かが持っていってしまった。それでも、さすがに裸じゃ可哀想だと思ったのか、一応代わりに安い服を着せてはありますけどね」
 野口が急に身を乗り出しました。うつむいた女の前髪が彼の頬に触れると、野口はそれをうるさそうに払って、
「昨日の夜なんか口の中をのぞき込んでる奴がいました。金歯でも探してたのかな。思わず何やってんだ!って怒鳴ってましたよ」
「ひどい」と言うと山田は手で顔をおおいます。
「でしょ……それだけじゃないんです」
 野口は周囲を気にしました。でも、2人の話を聞いていたのは月だけです。その月も今は濃い雲に隠れてしまいました。ホームの蛍光灯が1本切れかかってかちかちと鳴いています。
「ちょっとスカートめくってみてください」
「えっ?」
「人が来ない間に」
「しかし……」山田もまわりを気にしました。誰もいません。ここには誰もいません。
「ほらっ今だ。早く」
 山田があわてて女のスカートをめくって中を覗き、そしてすばやくまた元に戻します。
「ねっ。履いてないでしょ。ひどい奴がいるもんです。下着まで脱がすなんて」
「そんな……」
「最初から履いていなかったわけじゃない。ちゃんと履いていたんですよ。それが昨日の夜にはなかった。きっと悪い奴が脱がして持っていったんです。もしかしたら、もっとひどいことも……」
「やめろ!」山田は突然立ち上がって叫びました。月がびっくりして雲から顔を出し、ふたたびホームを明るく照らします。だから、山田の顔の歪みがはっきり見えます。
「すみません。やめてください。お願いですから……」
「そ、そうですね。もう止めましょう。そこまで人間を疑ってはいけない……」
「浪費家だったんです」
「えっ?」
「次から次へと高級ブランドの服やバッグを買ってきて、食事だって毎日有名な料亭やレストランで外食。……重いはずですよ。わたしのリストラで少しは収まると思ったら、今度はカードで買い物をはじめて……あげくに危ないところから借金……仕方なかったんです。わたしが我慢できなかったとかじゃない。妻自身がそういう自分をもてあまして苦しんでいた……」
「はあ…ということは、こちらは」
「紹介が遅くなりました。わたしの妻です」
「どうも、はじめまして……は、おかしいか。素敵な奥様じゃないですか。亡くなってもこんなに綺麗なんだから、生前はさぞ……ご自慢だったでしょう」
「それはもう。わたしなんか何の取り柄もありませんけど、この妻といっしょになれたことは一生の宝物でした。……だからこそ幸せにしてやれなかったのが心のこりです」
「幸せだったんじゃないですかねえ」
「……」
「奥さん、幸せだったって顔してますよ。今だってみんなに装飾品とか洋服を恵んでやって役に立ってるんじゃないかな。このわたしだって一緒に踊ってもらって嬉しかったですよ。生きてたら絶対に踊ってなんかもらえなかった。下着とられても、それ以上のことされても……いや、失礼。とにかく、そう思いますよ」
「ありがとうございます。そう言ってくださると少し気持ちが楽になります」
「それで……どうするんですか。奥さん……いくらなんでもここままじゃねえ」
「洋服だけじゃなくて妻の体も誰か持って行ってくれないですかねえ」
「そりゃ、ちょっと……ね」
 月が何かに気づきました。電車がやっと駅に近づいたようです。
「来ましたね」
「ええ……わたしもやってみようかな」
「え?何を?」
「シャルウイダンス」
「ははは。けっこう重いですよ。いや、それはよくご存知か」
「では」と言って山田は妻の脇に腕を入れて持ち上げました。そして、自分の身体を反らすようにして妻の体をその上にのせ、彼女の手をとってゆっくり踊り出しました。
「それじゃわたしがBGMを……」と言って野口が「アンチェインド・メロディ」をハミングしました。月が大笑いしてそれを見ています。切れかかったホームの蛍光灯もかちかちとリズムを刻んでいました。
 電車の近づく音とともに、心臓が早口で野口に何かを警告しています。
「山田さん……黄色い線のそっちは危ないですよ……山田さん」
 女のかしげた頭の横に山田の顔が見えました。彼は「ありがとうございました」と野口に唇の動きで告げると女の冷えた頬に接吻をしました。電車がホームに迫ってきます。
「あっ」と野口が声を上げました。そのとき山田は女もろともホームの下に消えたのでした。
 電車がブレーキ音のような金切り声とともにホームに滑り込んできて止まりました。ドアが開き、車両がためいきをつきます。誰も座っていない座席の列が楽しそうに笑っています。
 何かがホームの端でぴょこぴょことはねていました。野口が近寄ってみると、それは耳でした。
「山田さん……」と野口が声をかけると、月がバカにしたように笑いました。   
                                    おしまい

最後まで読んでいただきありがとうございます。ちょっと不気味な作品でした。ご不快でしたらごめんなさい。よろしければコメントをお願いいたします。

↓ 題材にした『幸福な王子』すごい童話ですねよ。幼い頃に読んで脳にこびりついています。


幸福な王子―ワイルド童話全集 (新潮文庫)

幸福な王子―ワイルド童話全集 (新潮文庫)

  • 作者: オスカー ワイルド
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1968/01/17
  • メディア: 文庫



↓ コントを書くのって小説の練習としてもいいかなと思います。上掲の拙作も元はコントの習作です。


別役実のコント教室―不条理な笑いへのレッスン

別役実のコント教室―不条理な笑いへのレッスン

  • 作者: 別役 実
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2003/11/01
  • メディア: 単行本



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小説『キツネに嫁入り』 [短編]

『キツネに嫁入り』 高平 九

はしがき
 これまたあるコンテストに応募した作品です。題材は……わかりますよね。

あらすじ
 春の朝、ホテルの部屋に白いチョウチョウが入ってきて、眠っている妻の乳首にとまる。夫はそのチョウチョウを捕まえようとするけれど逃してしまい、そのチョウチョウの姿を追い求めるようになる。やっと見つけたチョウチョウのあとをついていくと、それは白い服を着た男に変身する。夫婦は男が薦める宿に泊まることにするのだが……。

本文

 妻の乳房の上に白いチョウチョウが止まった。ベッドのシーツがはだけて、右の胸だけがさらされていたからだ。もう昼近い時刻なのだろう。窓から入る明るい春の日差しが妻の顔や胸を優しく照らしていた。
 旅先の空気を感じたくて、さっきカーテンと窓を開けた。するとベッドに戻ろうとするわたしのスキをついて一匹のチョウチョウが部屋に侵入した。チョウチョウは紅茶色の乳首を細い脚でつかみ、あまつさえ口吻をつきだして吸い出した。その所行を憎らしく思ったわたしは、手を伸ばしてチョウチョウをとらえようとした。息を殺し、はじめのうちはそろりと、そのあとは一気にチョウを襲った。が、チョウチョウは余裕でその攻撃をかわした。チョウチョウはひらひらと窓の外へ飛んでいった。わたしの掌は妻の乳房の上にむなしくあった。そのぬくもりを感じていると妻が目を覚ました。大きな瞳は眠そうだったが、すぐにてらてらと艶がかかる。どうやら勘違いをしているらしい。冷たい指がわたしの掌を包んで下の方に導いた。で、またはじまってしまった。
 二度の交わりのさなか、あのチョウチョウが入ってくることはなかった。その代わり疲れて眠ってしまうと夢の中にチョウチョウがやってきて妻の蜜を吸った。
 遅いランチをホテルのラウンジでとったあと、わたしたちは散歩に出た。
 ホテルの裏手にはハイキングコースがあった。森の中を進むと吊り橋に出る。人ひとりがやっと通れるような幅の橋で、足下に板が敷かれているものの、多くの吊り橋がそうであるように、すき間からはるか下方の川が見える。岩の間を渓流がのたうって流れている。妻はわたしの背中に身体を押しつけて若い娘のようにはしゃいだ。
 橋を渡りきって、さらに川沿いに進むと滝がある。幅の広い流れが三段に分かれて落ちている。その白い姿を背景にして頬を寄せながら自撮りをする。妻の息がわたしの顔にかかり、求められるまましばらく接吻を交わした。まわりには誰もいなかった。
 散歩のあいだ、たくさんのチョウチョウを見たが、あのチョウチョウはいなかった。
 
 翌朝、同じようにして待ったが、チョウチョウはとうとうやって来なかった。仕方なく妻の乳房に手を置いて、昨日と同じように二度交わった。その間もチョウチョウが姿を見せることはなかった。
 昼過ぎにホテルをチェックアウトして、送迎バスに乗り込んだ。バスの窓からホテルの部屋の窓を見上げたが、それらしいものは飛んでいなかった。

 バスが駅に着くと、ひどい喪失感に襲われた。
「ねえ、もう一泊しようか」
 わたしがそう言うと、妻はえっ?という顔をして、
「どこかに寄り道をしたいの?」と聞いた。
「いや、もう一度さっきのホテルに泊まらない?」
「それはどうかしら。いくら素敵なホテルでももう3日目よ」
「いやかい?」
「いやじゃないけど……仕事がね」
「もう1日だけ休めないかい?1日だけ」
「休めないこともないけど……」
 妻はわたしの目の奥を覗き込んだ。わたしがどこまで本気か見極めているのだ。
「いいわ。もう1日だけ。あなたの退職記念の旅だものね」
 話を聞いていた運転手がホテルに空室があるか問い合わせてくれた。ちょうど1部屋キャンセルが出たというので、ホテルに戻ってもう一度同じ部屋に泊まりたいと言った。フロント係は怪訝さを笑顔の下にうまく隠してルームキーを渡してくれた。
「それで、これからどうする?」部屋に入って荷物を置くと妻が言った。
 何もやることがないので、とりあえず二度交わった。
 翌朝、また同じように窓を開けると晴れた空から雨がざっと降ってきた。
「狐の嫁入りね」
 妻は雨音で目を覚ましてしまった。今日はシーツで胸を隠している。これではチョウチョウはやって来ない。雨音がゆっくりと弱まり、湿った空気の中にまた春の光があふれた。
 チョウチョウはとうとうやって来なかった。
 昼過ぎに昨日と同じ送迎バスに乗って、昨日と同じ駅に着いた。先にバスを降りた妻が振り向いて、
「よかった。また戻ろうとか言い出すんじゃなかいと思った」
「もういい。あきらめた」
「あきらめたってなんのこと?」
「いや……」
「うわーおいしそう」わたしの答えを聞かずに、妻は土産物屋の店先で湯気を立てている饅頭に目を奪われた。妻が試食を勧められ、饅頭の一切れを食べるあいだ、わたしはぼんやりと駅前の風景を見ていた。土産物屋が櫛比し、観光客が店を回って商品を漁っている。外国語も聞こえてきた。明るいピンクのジャケットを着た外国の女性たちは妻が買おうか迷っている饅頭に目をつけた。たちまち饅頭の蒸籠の周りをピンクが取り囲み、妻は爪楊枝を手にしたまま、押しのけられて戸惑っている。と、そのピンクのジャケットの後ろから突然白いチョウチョウが現れた。間違いない。あの白いチョウチョウだった。
 わたしたちの目の前を誘うように通り過ぎていく。わたしは迷わずそのあとを追った。「あなた?」まだ爪楊枝を持ったままの妻が言った。「ねえ、あなたどこにいらっしゃるの?」
 チョウチョウに目をこらしてあとを追った。妻もあとをついてくる気配を感じるが、わたしはけして振り向かなかった。
 チョウチョウは駅前を離れていく。やがてまわりに田んぼが広がる場所に出た。それでもまだポツポツと人家が見えている。さらに進むと人家が一切なくなり、広い野原の道にやってきた。背高の草が一面に茂っているので、くねくねした細い道があるだけで周囲を見渡すことはできない。無数のチョウチョウが飛び交っているのに、なぜか目の前の白いチョウチョウを見失うことがなかった。それだけはっきりした白色だったのだ。そのチョウチョウがふっと草の陰に入って見えなくなった。不安になったわたしが足早に進んで見ると、なんのことはない、チョウチョウは背の高い白い服を着た男の姿になっていた。

「ねえ、帰りましょうよ。ここは気味が悪いわ」
 翌朝、掛け布団の中に身を隠すようにして妻が言った。誰かに見られているような気がするというのだ。案内された宿の部屋は和室で、八畳の部屋に四畳の次の間がついていた。真新しい畳のにおいがして、広い縁側からガラス戸を通して裏手のせせらぎが見えた。古風な造りでありながら、すべてが新品のような不思議な部屋だ。
 昨日、白い服の男は何ごともなかったように「いい宿があるんですよ。昨日までの宿はあなたにはふさわしくない」と「わたし」に向かって言った。男は細面の顔を惜しげもなく開いて笑った。ほら何も隠していませんよという手妻師のようだ。「あなた」という言い方がなぜか妻に向けられているように感じた。
 宿につくといつの間にか男が消えて、宿の女将と名乗る女性に部屋に案内された。男とよく似た細面の美しい女将だった。
「あいにく部屋にお風呂がありませんの。その代わり名物の檜風呂にお二人で入ってください」
 その風呂は湯船も桶もすべてが真新しく、はじめて使うようにきつい檜の香りがした。妻とふたり湯船につかると、それを待っていたかのように一面に湯気が立った。見えるのは妻のぬらぬらとした裸体だけである。妻は白くて柔らかな肌をしていた。それが湯で温められて、ほんのり紅くなっている。抱き寄せて湯船の中で交わった。
 少し疲れたと言って妻が先に風呂を出た。檜の香りをかいで余韻に浸っていると、誰かが湯船に入る気配がする。
「どうです?檜風呂は?」わたしの身体に女将の白い肩が触れ、柔らかな感触が深いところを刺激した。
「え、ええ、満足しました」
「奥様だけで?」
 わたしが「はあ」と間抜けた反応をすると女将はほほほと笑いながら、私の上に豊かな身体をあずけてきた。湯船で一度、女将の部屋で二度交わった。女将はその間も終始ほほほと笑っていた。
 部屋に戻って入口の襖を開けると部屋から何かが消えた気配がした。
 窓から月あかりが入って、部屋の半分はほんのりと明るく見えた。その明かりを頼りに布団に入る。何気なく手を妻の布団に差し入れると、火照った肌が指に触れた。
「あなた……よね」妻の声がかすかにふるえていた。
「ああ。遅くなったね。のぼせてしまってね、少し涼んでいたんだ」
「えっ、そんな、だって今まで……」
 突然、妻の声が途切れた。「おだまり」とくぐもった声がする。
「どうしたんだい?」わたしが明かりを点けるために布団の上に立ち上がろうとすると、
「なんでもない……満足した?」と妻の声がした。答えに窮していると、
「お風呂。楽しかった?」と問い直してきた。
「ああ。満足したよ」
「あたしは、もう少し……ねっ」
 熱い手が伸びてきて、わたしの手を探りあてると強く引いた。布団の中の妻は裸だった。その夜の妻はいつになく激しく、わたしたちは朝まで何度も交わった。
 
「ねえ、ほんとうよ。ここは怖い」
 目覚めるとわたしの布団の中に妻の裸体があった。妻の身体は昨日と同じように柔らかかったが さすがに疲れていて抱く気にはならなかった。
「わかったよ。ただ宿を出る前にもう一度風呂に入って来よう」
「……あなた、本当よ。そうじゃないとあたし……」
「君も一緒にひとっ風呂浴びないか。そのままじゃ気持ち悪いだろう」
「いいえ。やめておく。あのお風呂も気持ちが悪いのよ」
「じゃあ……」と言って風呂場に行った。宿の中は静まりかえっていて、どこにも女将の姿がなかった。もちろん湯船につかっていても、湯気の中から女将が現れたりはしなかった。
 部屋に戻ると、妻は布団の上で浴衣を半分はだけて座っていた。ただ、先ほどの不安な様子は消えて機嫌良く笑っている。
「お前、大丈夫かい?」
「ええ。さっきはごめんなさい。はじめての宿だったから神経質になっていたんだわ。もう大丈夫……なんならもう一泊していく?」
「仕事はどうするんだよ。それにわたしも遊んでばかりはいられない。戻って再就職先でも探すとしようか」
「そう……しょうがないか」と言うと、妻は立ち上がって浴衣の紐をほどいた。春の光を浴びた裸体が現れた。「どうする?」妻の声が色っぽく湿り気を帯びる。
「いや、やめておこう。そろそろ現実(うつつ)に戻らないとな」
 妻は顔をくもらせて「そうね」と言うと、観念したように身支度をはじめた。
 宿を出るときも女将の姿はなかった。もちろん、白い服を着た背の高い男の姿もない。チョウチョウもいなかった。妻はなぜか「宿代はいらないそうよ」と断言したが、そうもいかないだろうと誰もいない玄関にそれなりの礼を紙に包んで置いておくことにした。
 宿を出ると昨日と同じ草原の中の一本道である。くねくねと何度も曲がったが迷いようもない。やがて周囲を田んぼに囲まれた道にやってきた。
「不思議な体験だったね。チョウチョウに誘われて宿に泊まるなんてね」わたしが言うと、
「ほんとね」と言って妻がふいに立ち止まった。
「どうした?」
「残念だわ。あたしあなたのこと気に入っていたのに。でも、仕方ないわね」
 妻がさびしそうに言うと視界が急にぼやけた。次に焦点が合ったとき、目の前の女は妻ではなかった。宿の女将が言った。
「あたしたちここから先には行けないのよ」妻の服を着た女将がゆっくりと後ずさる。
「妻は、妻はどうした?」
「あの人はあたしたちの国に嫁入りしたの。あたな方をここに連れてきた男がこれから亭主になる。あなたもあたしの亭主になれたのに。残念ね」
 女将はそう言うと、くるっと身を翻して獣の姿で走り去った。
 わたしは必死にあとを追ったが、やっとたどりついた小さな川の岸に礼金を入れた紙包みを見つけただけだった。

                              おしまい

読んでいただきありがとうございます。よろしければコメントをお願いします。



民話の世界 (講談社学術文庫)

民話の世界 (講談社学術文庫)

  • 作者: 松谷 みよ子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2014/08/12
  • メディア: 文庫



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小説『イマナリ』 [短編]

『イマナリ』 高平 九

はしがき
 この作品もあるコンテストに応募しました。『伊勢物語』63段「世心つける女」を題材にしています。

あらすじ
 清掃員の琴子はある建設会社のビルでトイレを担当していた。春から三男の光太がその建設会社の新入社員になった。ある日、琴子は今業平と噂される光太の上司原有一郎を知る。社長の御曹司でもある有一郎は、なぜか琴子を「お母さん」と呼んで慕ってくれるのだが……。

本文
 「琴ちゃんごめんね。手伝わせちゃって」
 琴子は5階の男子トイレで、隣の個室にいる常子の声を便器の中に顔を突っ込みながら聞いていた。さっきから便器のヘリの裏側の汚れを特殊なスポンジでこすっていた。水に浸かるほど頭を便器に入れないとへりの裏側をすべてを見ることはできない。でも、そうすると中が暗くなってよく見えなくなる。だから、どうしても手の感覚に頼るしかないのだが、ピンクの分厚いゴム手袋越しだとどうにももどかしく、汚れの状態がわからない。
「何言ってんの。お互い様でしょ」
 大声で答えた琴子は手袋を外し、素手で便器の裏側を磨いてみた。ヨシッこの方が汚れがとれる。琴子はひとり微笑んだ。手なんか後で洗えばいい。身体についた汚れなんか洗えばとれる。どんな汚れでも。
「ごめんね。本当に」
 気弱な常子に琴子は少し苛立った。こうやって仕事を手伝うことなんてなんでもない。でも、あの意地悪な庶務課長に汚れを指摘されたときに「誰も見ませんよ」くらい言ってやればよかったのだ。むろん琴子が課長なら「誰も見ないところをやるのがプロの掃除でしょ」と言い返すだろうが。

「琴ちゃん、ありがとう。これ飲んで」掃除の後は屋上でひと休みするのが習慣だった。ビルの屋上は高いフェンスで囲まれ、社員たちの憩いの場になっている。さすがに昼休みは遠慮したけれど、社員が通常の勤務にせいを出しているときには琴子たちも使わせてもらっていた。屋上は建築会社のビルらしくよく整備されていた。木々の植え込みや花壇などの間に遊歩道があって、たくさんの木のベンチが置かれている。琴子たちはフェンスに近く、いちばん目立たないベンチで休憩をした。フェンスの向こうには鱗雲の下に東京の舞台裏が広がっている。さらに向こうにはささやかな富士山も見える。琴子が身体をほぐしながら深呼吸をしていると、常子が缶コーヒーを持って来た。
「はい」と差し出された缶に、
「気を遣わなくていいのに、ありがとう」と言って琴子が手を伸ばす。
「熱い」琴子は缶の熱さに思わず手を引いた。缶が鈍い音を立てて転がる。
「相変わらずネコ手なんだから」常子が缶を拾ってくれながら笑った。

 琴子の手は冷たい。交際していたとき夫にもよく言われた。
 2年前、病室で琴子はすでに意識のない夫の手を握った。夫は長男の誠一が勤務する病院に大動脈解離で緊急入院していた。術後の経過も良好で、ICUから一般病棟に移され、安心して帰宅したばかりだった。看病で疲れて転寝をしていた琴子は誠一からの電話で起こされた。病室に駆けつけたときには、夫はもう意識がなかった。手を握ると夫がふいに目を開いて笑った、と琴子は思った。「お前の手は冷たいなあ」と笑ったのだと思った。そのまま夫の目の光はゆっくりと消えていった。なぜか琴子は「あのむこうで映画みたいにエンドロールが流れているのね」と思っていた。不思議に悲しい気持ちにはならなかった。それでも涙は目から漏れていた。「蛇口が壊れたんだ」と琴子は思った。
 夫の遺したものは多くなかった。財産はすべて息子たちの教育費に消えていた。そのおかけで長男の誠一は精神科の医師に、次男の純平は都庁の役人になることができた。3男の光太はまだ私立大学の2年生だった。多少の保険金は出たが、光太の学費のこともあるので琴子は清掃会社で働くことにした。もともと掃除は嫌いではない。スーパーやコンビニのレジで客や同僚に気兼ねして働くより、清掃員の方がのびのびと働けると琴子は思った。
 そしてこの春、大学を卒業した光太が偶然にも琴子が派遣されているビルを所有する平成建設に入社して、同じ職場で働くことになった。光太は優しい子だ。母親が同じビルでトイレ掃除をしているなんて恥ずかしいだろうに、どこで会っても必ずにこやかに声をかけてくる。同僚や上司に紹介するのも嫌ではないらしい。
「高井君には期待しています。本当ですよ、お母さん」
 だが、名刺を取り出したのは、さすがに原有一郎だけだった。原は光太が所属する営業2課の課長で直属の上司だった。
「実は平成建設の社長の御曹司」と光太が夕飯のときに教えてくれた。
「それなのに、少しも威張ったところがないだろ。誰にも親切で仕事もよくできて、それになんとも言えない品の良さがあるんだよなあ。会社中の女子から愛されてるし、男性社員にも信頼されてる」
「そんな完璧な人がいるのかねえ」と琴子が煎茶を注ぎながら言うと、
「まあ、欠点があるとすれば、あれかなあ」茶碗に手を伸ばした光太が「あちっ」と顔をしかめた。琴子に似てネコ手なのだ。
「なによ」
「人から聞いた話なんだけど、原さんて好きになってくれる女性には誰にでも親切にできるんだって」
「そんなの当たり前でしょ」
「いや、普通は好きでもない女性と付き合ったりしないでしょ。でも、原さんは全く興味のない女性でも、自分を好きになってくれれば愛してやるんだってさ。だから……」
「だから?」
「陰でイマナリって呼ばれてるらしい」
「イマナリ?」
「『伊勢物語』の主人公にさ。業平っているじゃない」
「そうなの」琴子は古典が苦手だった。
「その業平みたいにプレイボーイな奴を今業平っていうんだってさ」
「光源氏みたいなもの?」
「よくわかんないけど、そうなんじゃないの」

 原有一郎は光太がいないところでも琴子に「お母さん」と声をかけてくれるようになった。これには琴子の同僚たちも、そして原の同僚や部下たち、とりわけ彼のファンの女子社員たちは目を丸くして驚いていた。もちろん女子の目には嫉妬と軽蔑が混じっていた。
「実は僕マザコンでして」
 ある日、琴子が男子トイレの清掃をしていると、原有一郎が入ってきて、いつものように「お母さん」と気さくに話しかけてきた。
「早くに母を亡くしましてね。母は祖母や小姑にいじめられて、よく実家に帰っていました。祖母が私を離さなかったので、幼い私はいつも父の家に置き去りです。父も私も母を愛してましたから、とてもつらかったです」
 有一郎は問わず語りにそんな話をした。たまたま常子が孫の出産で休んでいて、琴子は1人だった。有一郎は手を洗いながら鏡越しに話していた。
「だから、高井君のお母さんと母を重ねてしまうんでしょうね」
 鏡の中の有一郎の顔がさびしそうに笑った。琴子はその時、有一郎を背中から抱きしめてやりたい衝動にかられた。たぶん彼は「お母さんは手が冷たいんですね」と言うだろう。でも、そうはしなかった。手には分厚いピンクのゴム手袋があり、その中にはまだ濡れたブラシが握られていたからだ。

「昨夜ね、夢を見たの」缶コーヒーを飲みながら、常子が琴子にそう話しかけた。
「どんな夢?」琴子は気のない相槌を打った。
「それがさあ、男の人の夢だったのよ」と常子が目を瞬かせた。厚化粧の白粉の壁が崩壊をはじめている。琴子は思わず自分の目尻を抑えながら、
「その話エッチな方に進む?なら私パスね」と言った。こんな綺麗な秋晴れを老女の脂ぎった夢の話で汚されたくはない。
「やあねえ。違うよ」と常子が琴子の浅黄色の制服の肩を叩く。常子は琴子と違ってとても手が熱い。余韻が肩のあたりにじんわり残る。
「孫がね、高校の古典の授業で勉強してきたんだけど、昔の人は異性の夢を見ると、相手が自分のことを想ってるって解釈するんだって」
「へえ、そうなんだ」
 誠一がこの話を聞いたら「ばからしい」と一蹴するだろう。「フロイトもユングもいない時代にはなんでもありなんだよなあ」と。
「あの人があたしのことを想っていてくれたらなあ」と言う常子の横顔は遠くを見ていた。その視線の先には今日も小さな富士があったが、彼女の目は他のものを見ているにちがいない。
「ばかね」ぬるくなったコーヒーを確かめるように飲むと琴子は思わず言っていた。
「ばかでもいいもん。ああ、一度でいいからあの人に抱かれたい」
 琴子はうんざりした。

 琴子もその夜夢を見た。夢の主人公は原有一郎だった。原は「お母さんの手は冷たいんですね」と言った。夢の中の琴子の手は有一郎の身体の熱い部分を握っていた。すぐにそれは琴子の両手に余るほどの長さになり、伸びた先端を琴子の口に突き入れ、からだの芯を貫いた。琴子は声を上げて目を覚ました。現実の布団の上でからだの芯はまだ疼いていた。

 翌朝、琴子が男子トイレの清掃をしていると、原有一郎が入って来た。こういう時に限って常子は孫がはしかに罹ったとかで休みをとっている。
「お母さん、おはようございます」と言って、有一郎はいつものように用をたした。琴子は身体が震えるのを感じていた。昨夜の芯の疼きが戻ってくる。
「おはようございます」となんとか言葉にした琴子は、個室に逃げ込んで便器を磨くふりをした。
「光太君、博多の現場に出張中でしたね。お一人で寂しくないですか」
 まるで「私が代わりに慰めに行ってさしあげましょう」とでも言うように琴子に聞こえてきた。
「いえ……はい」
 琴子は素手で便器のヘリの裏側を強く摩っていた。人差し指と中指の指先に濃い痛みを感じる。今、自分は自身を罰しているのだと琴子は気づいた。
「すいません。大丈夫です」琴子の声はかすかだった。
「えっなんて言いました」と有一郎が大きめの声で言った。
「大丈夫です」と言う琴子の声には少し苛立ちが混じってしまう。
「お母さん、ごめんなさい。何か気に障ることを言いましたか」
 そう言いながら、有一郎が琴子に近づいてくる気配がする。
「手……」琴子は立ち上がって言った。
「はい?」有一郎は個室の前に立っている。逃げ場はどこにもない。
「手洗ったほうが」琴子は振り返って、手で自分のマスクを下ろして言った。あたし何言ってるんだろうと琴子は思う。
「血が」有一郎の顔が驚いていた。そして、彼の手が琴子の手を握った。彼の手は温かかった。
「怪我してるじゃないですか。ちょっとこっち来て」有一郎はそう言うと琴子の手を握ったまま手洗い所に引っ張って行き、傷口を洗ってハンカチで包んでくれた。私の手じゃなくてあなたの手を洗ってと琴子は思う。
「医務室に行きましょう」
「それは、できません」
 この人何を言ってるんだろう。清掃員が会社の医務室を使うなんてとんでもないと琴子は思った。
「困ったなあ。じゃあ、ここで待っててくださいね。いいですか」
 琴子は待たなかった。掃除用具の片付けもせずに、ハンカチを手洗い場に残して逃げ帰ってしまった。帰る途中でも有一郎が手を洗ったか気になって仕方がなかった。

 その夜、大阪にいる光太から電話があった。
「母さん、どうしたんだよ。line見てないのか。電話もしたんだよ」
「ごめん。ちょっと具合いが悪くてね」
 琴子は布団の中にいた。スマホは枕元にずっとあったが着信に気づかなかったらしい。
「大丈夫なのかい。課長が心配して俺のところに電話をしてくれたんだ。出血してたっていうじゃないか」
「大したことないのよ。指先をちょっと切っただけ……あのね。光太。母さんもう仕事辞めようと思うんだけど、どうかな」
「……そりゃ、俺ももう学生じゃないし、食費ぐらいなら家に入れたっていいけど……その件は兄貴たちとも相談するとして、とにかく課長に連絡してくれよ。メルアド送るからさ」
 琴子は光太が送ってくれたメールアドレスに、自分が無事であることと黙って立ち去った非礼をわびる短い文章を綴って送った、すぐに有一郎から返信があった。「心配なので夜中でもいいから電話をください」という内容だった。プライベートで使っているスマホの番号も添えられていた。琴子はどうすればいいか分からなかった。このまま放っておきたかった。仕事も辞めて有一郎の前から消えたかった。

 「あのね。母さんさ」と琴子は切り出した。電話の向こうの長男の誠一は機嫌が悪かった。琴子が誠一に電話をするのは久しぶりだ。誠一は意外にストレスに弱い。昔から人間関係のトラブルでも勉強の行き詰まりでもすぐに顔に顕れた。だからこそ精神科医を志したのだが。自分からの電話もまた彼のストレスになるだろうと琴子は感じてしまう。
 琴子は「仕事辞めようと思って」と言うつもりだったのに「夢を見たんだ」という言葉が口から飛び出し「知り合いの男の人が出てくる夢でね」と言ってしまっていた。
「辞めてくれよ。こっちは忙しいんだよ」と言って誠一は電話を切った。
 次に次男の純平の携帯にかけた。
「母さんね、男の人の夢を見たんだ。どう思う」と琴子が言うと、少しの沈黙の後「母さん、一度兄貴のところで診てもらおうか。女房の実家のお父さんも最近認知症になっちゃってさ……」
 純平は妻の実家の言いなりだった。純平だけではない。夫が遺した財産を3人の息子たちのために使い果たしたのに、誠一も純平も家を出て、それぞれ妻の実家のそばに家を建てた。どちらも病院長や役所の上司の娘だから仕方がないが、そのために自分はトイレ掃除の仕事をすることになって、原有一郎に出逢ってしまったと琴子は思った。
「あたしね、夢の中の男の人を好きになってしまったみたいなのよ」と琴子は言っていた。
「あの、あのさ。困ったな。そんな夢見るなよな。恥ずかしいよ」
 電話の奥から1歳になったばかりの孫の笑い声がする。嫁は好きではないが、孫は可愛い。純平はその子に琴子の字をとって琴音(ことね)という名前をつけた。優しいのか冷たいのか子供の頃から母親の琴子にも純平の本性がよくわからない。
「あんたはいつまでも正体が見えない子だねえ」と琴子ははじめてそう言った。
「うるせえよ。お前に俺の正体が分かってたまるか」と純平が怒鳴った。一瞬琴音の泣き声が聞こえて、電話は無音になった。
 琴子は1階の和室にいた。子供たちには2階にそれぞれ勉強部屋をもたせてやった。今も光太はその部屋を使っている。誠一と純平の部屋も昔のままだ。
 この和室で琴子は夫と長いこと過ごした。夫が好きだった時代劇の文庫本、趣味の釣りの雑誌、国語辞典、そして老眼鏡の入った黒いケース。5年経った今でも夫の気配はこの部屋に色濃く遺っていた。そして、この家にいる琴子はまだ夫のものだった。でも、琴子は寂しかった。思わず夫の愛用の枕を胸に抱きしめた。そして泣いた。声を上げて泣いた。「寂しいよう」と口に出した。「お前にはまだ光太がいるじゃないか」と夫の声が谺のように返ってきた。「光太だって直に結婚して家を出てしまう」と琴子は見えない夫に向かって訴えた。「そうしたらまた琴音みたいな可愛い孫が産まれるさ」顔を上げると長押にかけた夫の遺影が笑っている。「琴音にだってなかなか会えないんだよ。それに純平ったらあたしを『お前』なんて……」「それは母さんがひどいことを言ったからだろ。すぐに電話して謝りなさい」「わかったよ」
 亡くなった後の夫は生きている時よりずっと雄弁で優しい。琴子はスマホを手に取り、履歴から純平の名前を探した。通話ボタンに指を当てるとき、絆創膏をした人差し指と中指が目に入った。と、ちょうどそのとき玄関のチャイムが鳴った。
 インターホンの受話器を耳に当てると原有一郎の声がした。
「夜分すいません。指の方どうですか?気になったので来てしまいました」
 琴子は何も答えずに受話器を戻した。そして和室につながっている台所に行った。流し台の下には釣ってきた魚を捌くための夫の出刃包丁がある。琴子はその一本を抜くと、ゆっくり玄関に向かった。

                                 おしまい

読んでいただきありがとうございました。よろしければコメントをお願いします。

↓ 『伊勢物語』には様々な恋の形が描かれています。そして主人公業平はどんな女性の気持ちにも答える理想の男性として描かれているのです。


伊勢物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

伊勢物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2007/12/01
  • メディア: 文庫




伊勢物語―付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP5))

伊勢物語―付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP5))

  • 作者: 石田 穣二
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 1979/11/01
  • メディア: 文庫



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小説 『ラブドラム~恋する太鼓』 [短編]

『ラブドラム~恋する太鼓』 高平 九

はしがき
 昨年あるショートショートの賞に応募した作品です。『綾の鼓』という能の作品を下書きにしています。よろしければ読んでやってください。 

あらすじ
 太鼓の名手に厳しく仕込まれた健矢は、一生恋をしないことを師匠に誓わされる。そして、師匠は「綾の太鼓」という皮の代わりに布を張った太鼓を健矢に遺した。それは師匠が恋を忘れるために叩いたという音の鳴らない太鼓だった。

本文
 健矢はその太鼓に目を凝らしました。
 稽古場の真ん中にその太鼓はおかれています。健矢が退職金を注ぎ込んで建てた広い稽古場には、さっきまでたくさんの大人や子供、つまり健矢の弟子たちが太鼓を並べて練習をした余韻が濃く残っていました。健矢はその汗の匂いと熱気が好きでした。太鼓は全身と全心で鳴らす楽器です。この一瞬のすべてを注いで打ち込まないと本当の音を返してくれません。健矢がそんな太鼓と出遭って60年が経ちました。
 健矢がはじめて太鼓の音を聞いたのは町のお祭りでした。ねじり鉢巻きに法被姿の大人や子供たちが並んで太鼓を打ち鳴らす姿に圧倒されました。でも、彼の心を本当に捉えたのは、演目の最後に老いた男が一打一打ゆっくりと鳴らした太鼓の音でした。それはまるで神の鼓動のようでした。幼い健矢に「お前はどうしてこの世界にいるのか、お前はここで何のためには生きるのか」と問いただすような音でした。一打ごとに眩みそうになりながら、健矢は歯をくいしばって耐えました。生まれて初めて何かと対決したような気分でした。そして、その時間は永遠に続くように思われました。
 翌日の夜には親に頼んで稽古場に連れていってもらいました。老人は入門を願った健矢を一瞥して「覚悟があるか」と問いました。ごく普通の習い事だと思っていた親は戸惑っていました。しかし、健矢は即座に「はい」と老人の目を見て言うことができました。老人に太鼓の教えを乞うということは、それだけの重みのあることだと、入門を決心した昨日の夜からずっと心の中で設けていたからできたことでした。
 師匠は健矢を他の弟子たちと一緒に稽古させませんでした。健矢は稽古場の隅に座って他の弟子たちの稽古をただ見ていました。そして、皆が帰った後で師匠から直々に手ほどきを受けるのです。そういうときの師匠には、他の弟子たちに見せるような好々爺と全くの別人でした。あの祭の夜のように一打一打を打って見せ、健矢にも同じことを要求します。あの夜に感じた神の恐ろしい鼓動に、健矢はひとりの孤独な少年として立ち向かうしかありません。彼の怖れや怠惰を戒めるように師匠は健矢を撥(ばち)で打ち据えました。その打擲に怯えながら健矢は命がけで太鼓を打ち続けました。もちろん、日々身体に刻みこまれる尊いアザを親に見とがめられないように気をつけながらです。
 師匠が亡くなったのは健矢がちょうど二十歳になった年でした。入門してから10年が経っていました。その間、師匠は一度たりとも彼を舞台に立たせませんでした。健矢は他の弟子たちが演奏するのをそばで見ているだけでした。彼はそれまで他の弟子たちと一緒に稽古をしたことがありません。ですから、彼らは健矢がどうしていつも稽古を見るだけなのか知りませんでした。師匠と2人だけの稽古のことは誰にも言いませんでした。口止めされた訳ではありません。ただ神聖なものが汚れる気がしたのです。
 亡くなる少し前に師匠は健矢を自室に呼びました。そんなことは10年間一度もなかったので、健矢は緊張して座っていました。
「お前は恋をしたことがあるか」師匠が言いました。
「いいえ」と答えると師匠は少し笑いました。白い口ひげに今飲んだ珈琲の滴がついています。健矢は師匠が珈琲を好むことも知らなかったのです。
「ああ……まあ、そうだろうな。恋をすると太鼓の響きが変わる」
「なぜです」と健矢は尋ねました。その問いは「なぜ恋をしたのか聞くのか」とも「なぜ恋をすると太鼓の響きが変わるのか」とも解釈できる曖昧な問いでした。しかし、師匠は満足そうに頷き、また珈琲カップを口に運びました。
「恋ごときで私の音は変わったりしません」健矢は少しむきになって言いました。「ああ、そうだな。お前は10年よく辛抱した。今ではお前の一打に圧(お)されることもある。まあ、たまにだがな」
 ここ数ヶ月、師匠の一打にはそれまで健矢を圧倒した教えが感じられなくなっていました。だから、彼は師匠に見放されたのではないかと焦っていたのです。しかし、一度圧力から解放されてみると、師匠の撥が宇宙から振り下ろされて、地球の奥深くへと抜けてゆくのがはっきりと見えます。今の師匠の一打一打はけして強くはありません。が、その一打は乾坤を貫いて、深く深く魂の奥まで届いているのでした。
「健矢よ。覚悟はあるか」
 健矢は人生二度目のこの問いに、すぐには答えられませんでした。。
「お前はまだ初心者に過ぎん。ここから果てしない修行がはじまる。私もあと何年お前の修行につきあえるか分からん。それでもやるか」
「はい」
「よし。それなら一つだけ覚えておくがいい。他に何をやってもいいが、恋だけはするな。女と寝るのもいい。結婚するのもかまわない。しかし、恋はだめだ」
「私に人としての幸せを捨てろとおっしゃるのですね」
 師匠はまた笑いました。
「人としての幸せが、恋をすることならな」

 亡くなった師匠は古くからの弟子の一人ひとりに遺品をのこしました。健矢に遺したのは大きな木箱でした。箱の蓋には「恋をしたら開けてよい。それまではけして開けてはならぬ」と師匠の手で書かれています。
 古くからの弟子たちが相談をして、師匠の太鼓の会を続けることになりました。唯一の肉親である師匠の妹さんも稽古場として家を使うことを許してくれました。それからは健矢も弟子たちと一緒に稽古をすることにしました。今まで何のために稽古場にいるのか分からなかった男が、初めて太鼓を打つ音に弟子たちは聴きました。そしてその力量に驚愕しました。健矢もまた聴いていただけの太鼓の曲を何のためらいもなく演奏できる自分に驚きました。そして、弟子たちは一瞬にして健矢が師匠の秘蔵っ子であると悟り、敬意をもって接するようになったのです。
 50年が経ちました。健矢はその間、毎夜のひとり稽古を欠かしませんでした。一打一打をゆっくりと全身と全心を込めて打ち下ろしていると、健矢の一打に師匠が応えてくれます。師匠の力強い一打が健矢を圧倒します。そして、奥深い一打が健矢に震えるような感動を与えます。師匠は確かにそこに生きていました。やがて健矢は弟子たちの指導者になりました。師匠の妹さんが稽古場として使っていた家を譲ってくれたので、健矢は役所の退職金を使って老朽化した稽古場を建て直すことにしました。
稽古場のこけら落としに来てくれた師匠の妹さんが、帰るさ稽古場の隅にある例の木箱に目を留めました。
「これは?」
「師匠が私に遺してくれた箱です。師匠は私に恋をするなと命じながら、そこには『恋をしたら開けてよい』と書いてあるんです。あきらかな矛盾ですね」
 健矢の話を聞いているのかいないのか、箱の表面を愛おしむように撫でながら師匠の妹さんが言いました。
「懐かしいわあ。この中には『綾の太鼓』が入っているのよ。ご存知?」
「いいえ。一度も開けていませんから」
「あら、一度も?」妹さんが少し笑いました。笑うと師匠と似たところがあると健矢は思いました。
「兄さんは三度この箱を開けたかしら。17歳のときでしょ、35歳のとき、それから最後は39歳のとき。私、お相手の顔も覚えていてよ」
「三度ですか」
「17歳のときは師匠の妹さん、25歳のときは私の大学時代の親友、そして39歳のときは私の亡くなった主人の姪」
「はあ」
「あら、兄のイメージが悪くなったかしら」
「いえ。それで恋とこの箱の中にある『綾の太鼓』とはどういう関係なんですか?」
「それも教えられてないのね。相変わらずいじわるね、兄さんったら。あのね。昔、卑しい男が高貴な女性に恋をしてね。そのことを知った女性が『この綾の太鼓を鳴らすことができたら、恋を叶えてもいい』と言ったのだそうよ」
「恋は叶ったんですか?」
「叶うわけないじゃない。だってさ、この太鼓は絶対に鳴らないんだもの」
「えっ?」
「『綾の太鼓』でしょ。皮じゃなくて、布が張ってあるの。鳴るはずがないでしょ」
「それで」
「卑しい男はそれでも太鼓を叩き続けて、最後は池に身を投げて怨霊になったそうよ」
「じゃ、師匠はなぜこの太鼓を……?」
「恋を忘れるために叩いたんじゃないかしら。鳴らなかったら諦めるって覚悟をして。どっちも馬鹿ね。鳴るわけないのにね」

 70歳になった健矢がそのコンビニを訪れたのは5月の日差しの強い日でした。稽古場のすぐ近くにコンビニができて、弟子の女子高校生が休日にアルバイトをするので、ぜひ一度来てほしいというのです。
 コンビニに入ると、弟子が健矢を見つけて「先生、ありがとう」と口だけ動かしました。知り合いに声をかけてはいけないと躾けられているのかもしれません。健矢が昼飯用の総菜と飲み物を買ってレジに行くと、弟子は他のお客の相手をしていて、他の子が彼のレジを担当しました。胸に研修中という札をつけているので、やはり高校生のアルバイトなのでしょうか。
「太鼓の偉い先生なんですね」
 バーコードリーダーを使いながら、その子が健矢に声をかけました。意外に低くてやや重みのある声の持ち主の顔を、彼はあらためて見つめました。背丈は健矢とほぼ同じくらいの大柄な子です。身体つきはほっそりとしていて、長い首の上に小さな顔が素直にのっています。
「あたしも習おうかなあ」と彼女は言いました、笑みを浮かべた口元の右端に小さな黒子が一つ光っていました。

 恋をしたその夜、健矢がいつものように打ち下ろした撥は、それまで一度も味わったためしのない凡庸な音を出しました。師匠の一打には及びもありませんが、最近の健矢は自分の一打がかなりの高みから振り下ろされて、深いところまで達するのを感じていました。「命果てるまで一打でもいい、師匠のもっとも平凡な一打に並ぶくらいの音を感じたい」と健矢は日々必死に太鼓に立ち向かっていました。それが、今の一打はまるで布を叩いたようです。健矢は目を閉じて瞑想しました。動揺を抑えて自分の身体と心の芯の位置を確かめるためです。そして、自分の芯が宇宙を貫く軸に重なったとイメージできるのをひたすら待ちました。長い時間をかけて待ちました。やがて、健矢はゆっくり目を開き、もう一度渾身の一打を太鼓にたたき込みました。ところが、太鼓が放ったのはさっきと同じつまらない音です。健矢は焦りました。何度試みても結果は同じでした。
 理由は明白でした。恋のせいです。昼間コンビニでほんのわずか言葉をかわしただけの10代の少女に健矢は恋をしたのです。もちろん、その時は何も感じませんでした。しかし、家に帰ってひとり昼食をとっていると、名も知らぬ彼女の笑顔と声がよみがえって、彼の心の器を満たしあふれだしました。まるで壊れた蛇口のように自分の心にあふれて止まらない恋心を健矢は呆然して眺めているしかありません。そして、彼女の口元の黒子もまた記憶の中でどんどん光を増し、たちまち一本の光の矢と化して彼の心の的をうち抜いたのです。
 健矢は一晩中撥を振り続けました。掌が灼けるように熱くなり、腫れているのが分かりました。こんなことは今までないことでした。一日中、一晩中太鼓を叩き続けられるだけの身体と心を健矢は作ってきたはずなのです。すべての力を出し尽くした健矢は、撥を握ったままでいつの間にか稽古場の床に仰向けに倒れていました。結局一度も彼らしい音は戻って来ませんでした。翌日は初めて稽古を休みにしました。翌日もその翌日もです。弟子たちが心配そうに訪ねて来ますが「病気のため休む」とだけ言って追い返してしまいます。とうとう師匠の妹さんがやって来ました。
「あんたもしかして」と健矢の顔を見るなり師匠の妹さんが言いました。
「遅い初恋はね。命とりだよ。さっ、すぐに『綾の太鼓』を打つんだよ」
 師匠の妹さんは稽古場に入るなり、健矢に例の木箱を開けさせました。
「でも、本当にいいのかい」と師匠の妹さんは言いました。
「誰に恋しているかは知らないけど、恋に生きることだってできるんだよ」
 そう言って、師匠の妹さんは健矢の目を覗き込むようにしました。師匠と本当によく似ていると健矢は思いました。
「覚悟はできています」
 健矢は師匠に伝えるつもりで決然と言い放ちました。

 そして今、「綾の太鼓」は健矢の目の前にあります。
 太鼓の木はかなり傷んで、青色の漆もほとんど剥げていました。金輪にも錆が目立ちます。ただ、皮の代わりに張られた布だけは一点のシミもなく、光沢さえ放っていました。健矢は太鼓の周囲を歩きながら、細かな部分も見逃さないように観察しました。そして、ゆっくりと一打目を振り下ろしましたとさ。

                             おしまい

 読んでいただきありがとうございました。よろしければコメントをお願いします。

↓ 能楽について書かれた名著です。


心より心に伝ふる花 (角川ソフィア文庫)

心より心に伝ふる花 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 観世 寿夫
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2008/03/25
  • メディア: 文庫



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揺れる男 [短編]

   揺れる男  ***「ハンガー物語」より   高平 九


 終着駅で降りると、すっかり夜更けてしまっていて、始発電車まで電車はないということだった。それを教えた駅員はとても親切で、敵とはとうてい思われなかったが、改札を出て何気なしに振り向くと、青く光った目でこちらをにらんでいた。
 僕は恐くなって、足早にそこを去った。
 雨は上がっていた。変わりに冷たい風が吹いている。雨の方が好きだ。風にはかなしみがない。
 駅前商店街はすっかり店のシャッターが閉まっていた。電灯は点いているが、人の気配はどこにもない。
 しばらく行くと、洋品店の看板の前に黒い服を着た男が立っていた。
「立っている」というのは男の描写としては不適当かもしれない。正確にはぶらさがっているよう印象だったのだ。細い肩だけが目立って、後はスーツ姿の胸といい、腰といい、脚といい、まるで力がない。背後の洋品屋のシャッターと離れていなければ、そこにかけられたスーツだとしか見えないにちがいない。しかも、彼の身体は年中ふらふらと搖れていた。
「薔薇買ってくれませんか」
 僕が近くにゆくと男はそう言った。正面から顔を見ると妙に印象の薄い顔立ちだった。ほんの数秒目を反らせばすっかり忘れてしまうような希薄な顔だった。おそらく搖れていて焦点を合わせにくいからだろう。
 男は手に竹で編んだ掌くらいの篭を持っていた。中を覗いてみると、そこには「薔薇」の花はおろか、「薔薇」と呼んでいいような華やいだものは何もなかった。ただ、古ぼけた写真が数枚、木の葉のように置かれている。
「薔薇を買ってください」
 男はまた言った。抑揚のない声だ。目を伏せているので心の動きもわからない。
 男は一枚の写真を篭から出すと、僕の前に差しだした。搖れている手からそれを取り上げる。
 その写真は戦争中に撮られたものらしい。真ん中にいる兵隊は、まだ若いころのこの男かもしれない。どこが似ているというのではなくて、全体の希薄な印象でそう思われた。左右には女たちがいた。二人とも着物にもんぺ姿だ。たぶん、右側が男の母親、左側が男の妻だろう。二人は兵隊の両肩に手を置いている。二人とも力んでいるように見えるのは男の搖れを支えているからにちがいない。若いときからこんな風に搖れる癖を持った男なのだ。
「それが自分の薔薇であります」
 男は直立不動の姿勢をとろうした。だが、まるで首吊りにされたようだった。
 男はその写真の絵解きめいたことをはじめた。
 男は小さな声で話した。時おり大きくなったりはするけれど、特に感情に大きな波があったからというのではなく、なんでもない部分で突然大きくなったり小さくなったりするのである。男の身体の搖れと声の妙な抑揚が相俟って、それは一つのリズムを産み出していて、男の話はその上に乗って進められた。その話はとても分かりにくかった。リズムのせいもあるが、内容自体が行ったり来たりして、ふつうなら五分も聴いていられまい。僕がこの男の話に耐えられたのは、始発電車までの時間をもてあましていたのと、さらにハンガー探しという課題を加えられた「取材」、それからその結果得られる報酬のためだった。苦労してどうにか聞き取れた彼の話は次のようなものだ。

 「写真に写っているのは私自身です。半世紀も昔のことになります。その写真は徴兵されて町を出る前日に撮ったものです。左右に立っているのは母親と婚約者です。町の写真屋というのはノートルダムのせむし男みたような出歯の小男で、町中の子供たちの恐怖でした。その男に写真を撮られると数日後には必ず不幸になるというのが、私の子供時代からの言い伝えでした。写真屋はとうの昔に家業を一人息子に譲って隠居の身でした。その息子は親のどこに似たのか、とてもきりっとした色男で、代変わりしてからずいぶんその店も女性の客で繁盛したものです。戦争も仕舞いの方になると、一人息子も片輪もありません。写真屋の息子は私と違って身体はりっぱでしたから、すこし前に徴兵されていました。息子が家を出る前日、隠居していた父親が写真を撮ったそうです。翌月に息子は不幸に遭いました。私の母はそんなことを知ってか知らずか私をその写真屋に連れてゆきました。店の中にはここで写真を撮って、戦地に往き亡くなった多くの青年たちの遺影がありました。その中にはここの息子のものも当然混じっていたのです。
 徴兵が決ってからは、私は外側だけの男になっていました。内面はもうすでに葬っていていたのです。覚悟とか決心というより、それは絶望に近いものでした。しかし、そんな私がこの写真屋の中に一歩脚を踏み入れたとたん、その息子の遺影を目にした瞬間に気持ちを越えた嫌悪感を感じてしまったのです。私は口を抑えて外に飛び出しました。追いかけて来た母は、私の足元のものを黙って見ていました。ご覧のとおりの大女である母は私の腕を引いて再び写真屋に引いてゆきました。抵抗したのですが、とても母にはかないません。婚約者は眉間に皺を寄せて店の中に立っていました。私がまだ抵抗しているのを見ると黙って母を助け、二人は私の両腕をしっかりと掴んで写真機の前の椅子まで連れてゆきました。婚約者が泣きだしそうな顔の私に向かって言った言葉を一つだけ覚えています。「子どもじゃないのでしょ」と彼女は言いました。彼女はまだ女学校に在籍している、ご覧のようなお下げ髪の少女だったのです。
 その言葉は私の身体の中に一瞬点った人間的な感覚を消しゴムででも消すように、消し去ってしまいました。私はまた外側だけの男になって写真機の前にすわっていたのです。ですから、ここに写っているのはけして「私」ではありません。いわば私の包装紙のようなものです。
 その夜、出征を祝う宴会がありました。それまで口にしたこともないような豪華な食事が並んでいました。私は婚約者と並んで座って、ついでに結婚の真似事もしてしまえということになり、三三九度をしました。その席では彼女は年相応の恥じらいをみせていましたが、夜の床入りとなってびっくりしました。あれならば、そのすこし前に知り合いが連れて行ってくれた遊女屋の女の方がずっと恥があるというものです。
 翌日の私はあのボール紙のような町並を、興奮で顔を紅潮させた大人たちと、妙に覚めた子供たちの旗の波に見送られて列車に乗りました。光のせいか黒くはためいて見えた小旗を見ながら、私は母のことを思っていました。いったい母は私をどう思っているのだろう。母が大女であることは先程話しましたが、同時に並外れた美しい顔立ちをしていました。幼い頃の私は母にあこがれていましたし、母もそれなりに私を愛してくれていたと思います。列車に乗り込んだ私に泣きながら手を振る母を、五十年余りたった今でもよく覚えています。しかし、その時に私は感じていたのです。
 南でも、北でも、どの戦地に赴いても私は必ず死ぬのです。だって、そこは「死体製造工場」でしかないのですから。そこで私の亡骸は小さく刻まれて、缶詰にされるのです。そして、戦争が終って平和な故国にひそかに送られて私の家の母のさびしい食卓に乗るでしょう。そのころには私の家での私の存在はほんとうに小さく納まるところに納まっているでしょう。母は私を箸でつまんで口に運びます。年に似合わず丈夫な歯に私がからんで、かりかりと音を立てる。器量のいい母は優しく微笑んで「おいしい」と呟くでしょう。
 そんなことを感じてしまった私にとって、母の姿はまったく遣りきれないものにしか見えませんでした」

 「母は薔薇の花が好きでした。唯一の楽しみは薔薇の栽培でした。母の小さな薔薇園は町でも評判でした。戦争があんなにひどくなる前は、人の心にも余裕がありましたから、母の薔薇を見にやって来る人も多かったのです。その中にあの写真屋の息子がいました。息子は母の薔薇を写真機で撮影すると、それを母に見せにやって来ました。母はとても喜びましたが、それは薔薇の写真のことだけではなかったのです。
 母と写真屋の息子の逢引きには私も関係していました。母は私の通院を口実にして外出しました。そして、私を病院に預けるといそいそとその男と逢引きをしていたのです。母は私を愛していました。少なくとも私が父親にさりげなく母とその男との関係を告げる前までは。
 私は母が大好きでした。だから私以上にだれかを好きになってほしくはなかったのです。母は私が告げ口したことを知らないはずでしたが、きっと何かで知ってしまったのです。父は母をひどく殴りました。母が離縁してくれと言うと、父は写真屋に出向いて、相手の父親と本人に土下座させて謝罪させました。二人は愛し合っていたはずでしたが、母よりも写真屋の息子の方が臆病になって母を裏切ってしまいました。そこで母の気持ちだけが宙に浮いてしまったのです。その気持ちはすこし母の心の空に雨を降らせてから、黒い雲となって外にはみ出してきました。そして。真っ黒な怨念となって私の頭にかぶって来たのです」
 
 「それで、あなたが復員していらしてから、お母上はどうなさいました」
 男は笑った。印象の薄い顔立ちなので、まるで歯だけが浮かび上がったように見える。
 「どうもこうもありませんよ。母の復讐は終ったのですから」
 男はそう言うと、いきなり僕の前で身を翻した。僕は思わず手を伸ばした。手に冷たい感触があって何かを掴んだ。硬いものだ。と、その瞬間男は消えた。後にはシャッターの前のうす暗い空間だけが残る。
  遺された僕の手は、きつく握られていた。間にはすこしだけ隙間があって、そこに何かがほんの少し前まであったようだ。冷たく硬い感触はまだ手の中に残っている。左右を見た。走り去ったにせよ。とても人間技とは思えない。呆然とした。動くことができない。
 気が付くと右手を前に突き出したまま立っていた。目の前には原色の大きな花模様を描いたシャッターがあるだけだ。黒い服の男も、彼の持っていた篭もそこにはない。あるのは握った手の中に残る冷たく硬い感触だけだ。
 僕はすぐに直観した。それは、電車の男が言っていた「ハンガー」に違いない。『黒薔薇の少女』の物語の中から少年が持ち出した、黒い「ハンガー」に他ならない。ゆらゆらと搖れていたのはただの彼の癖ではなかったのだ。あれはハンガーに吊られていたせいなのだ。
 手を広げると、そこに微かに風が吹いた。「ハンガー」の冷たい感触がすり抜けてゆくようで、思わずもう一度手を握りしめる。そしてそのまま、洋品店のシャッターのすぐ前まで進み出て、力いっぱいシャッターに描かれた花の上を叩いた。一度、二度、さらに何度も、何度も。      
                                                   (終)


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